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神八井耳命は武埴安彦命!

更新日:2月16日

第209話


日本書紀の綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命(かんやいみみ)・神渟名川耳尊を害そうとしました(タギシミミの反逆)。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、手研耳を襲います。この時、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺しました。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に薨去したといいます。


神武天皇の后は、吾平津媛です。手研耳命と神八井耳命は吾平津媛が産んだ子です。

神沼河耳命(綏靖天皇)は私が大彦としている人物です。神武天皇は本当は饒速日のことで、孝元天皇だと思われます。吾平津媛は前号で書いたコノハナサクヤ姫です。そして、吾平津媛はアタ姫でハニヤス姫です。吾田媛~ハニヤス姫

手研耳命と神八井耳命はハニヤス姫の子です。手研耳命はタギシミミの乱で殺されてしまったので、タケハニヤスは神八井耳命ということになります。


第202話で、茨田堤のことを書きました。茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しています。 京阪電車の大和田駅の東北にある堤根神社(つつみねじんじゃ)は、茨田堤の鎮守として創建されたものです。本殿の裏には、茨田堤の跡と推定される堤防の一部が現存しています。堤根神社の祭神は彦八井耳命です。茨田堤建設の中心人物は彦八井耳命だったのでしょう。


彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)は日子八井命とも表記されます。

古事記ではでは、神八井耳命は、神沼河耳命の同母弟とされていますが、新撰姓氏録では茨田連条には、命を神八井耳命の子とする異説が掲載されています。私は彦八井耳命は神八井耳命は同一人物であると思います。すなわち、タケハニヤスは神八井耳命です。


三嶋溝抗命はタケハニヤス とも既に書いています。「神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺しました。」とあるのは事実ではなく、本当は神八井耳が兄の手研耳命を殺害したのです。そして淀川(河内湖)や鉱山などの様々な権利を手にしたのです。茨田堤を作ったのも神八井耳=タケハニヤスです。神八井耳は綏靖天皇4年4月に薨去したといいます。タケハニヤスの乱はこの年に起こったのでしょう。綏靖天皇は大彦です。大彦 (hidemaru3375.com)


様々な利権を持っていた兄を妬ましく思いクガミミを討つことで罠を仕掛けたのです。

タケハニヤスの乱は本当は大彦のクーデターです。タケハニヤスの乱(最終章)


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2024.2.16追記

ここまで書いてきて最後に言うのもなんですが、神八井耳命は架空の人物です。

新撰姓氏録では茨田連条には、命を神八井耳命の子とする説が記載されています。

神八井耳命は、三毛入野(長脛彦)で彦八井耳命は長脛彦の子の建御雷です。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。  

※これまでの記事はこちらです。






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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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多坐弥志理都比古神社 - Wikipedia

皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。多氏

社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、これは神八井耳命のこととされる。神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。


和銅4年(711年)4月に正五位上に昇進する。同年9月に元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上した[4]。元明朝末の和銅8年(715年従四位下に至る。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
25 gen
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