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魏志倭人伝の入れ墨について

更新日:5月2日

第303話


神武天皇の家臣の大久米が五十鈴姫を見初めて会いに来た時、五十鈴姫は大久米命の顔に刺青があるのを見て驚き、鳥のようだと歌を詠んでいます。


阿米都都(あめつつ)、 知杼理麻斯登登(ちどりましとと)、 那杼佐祁流斗米(などさけるとめ)これに対し大久米命は次のように返す。

袁登賣爾をとめに 多陀爾阿波牟登ただにあはむと 和加佐祁流斗米わがさけるとめ

媛女に 直に逢わんと 我が黥ける利目

(大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。


これにより五十鈴姫がいたミシマでは、誰も顔に刺青などしていなかったことが分かります。近畿ではあり得ない風俗、風習です。御牧(ミマキ)や御島(ミシマ)の人々の文化水準はもっと高かった筈です。少なくとも崇神王朝の人は優雅な姿形だったと思いたいです。

と第11話魏志倭人伝を読むで書きました。


魏志倭人伝では、倭国では、男子無大小、皆黥面文身:男子は、大人も子供も、みんな顔や体に入れ墨しているとあります。


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司馬遷の史記には下記のように書いてあります。


呉の大伯、周の王の子にして、王・季歴(きれき)の兄なり。季歴は賢にして。聖子昌(しよう)あり。太王、季歴を立てて、以って昌に及ぼさんと欲す。

是に於いて大伯、すなわち荊蛮(けいばん)にはしり、身を文にし髪を断ち、用うべからざるを示し、もって季歴を避けく。


周の太王は、弟である季歴を取り立てた、季歴には昌という子があった。兄の太伯は荊蛮の地に落ち伸びた。体に入れ墨(刺青)し、断髪して蛮地の風俗になり、周の王家にふさわしくない姿にみをやつした。


私は、何度も素戔嗚(ウガヤフキアエズ)、三毛入野は和歌山の名草から、三島にきた「呉の勝」であると書いて来ました。


和歌山は、徐福が上陸した地とされています。参照:徐福伝説と「呉の勝」


中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、たとえば魏略や晋書:東夷伝、などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあります。これらはきわめて簡潔な記事であすが、より詳しい記述が南宋の通鑑前編、李氏朝鮮の海東諸国紀や日東壮遊歌等にあります。

日本では、南北朝時代の禅僧の中巌円月が、日本を太伯の末裔だと論じたといわれています。一方で北畠親房の神皇正統記は、「異朝ノ一書」に「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」とあるのを批判しており、室町時代の一条兼良も、日本書紀纂疏で太伯末裔説を批判しています。イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの日本教会史では、神武天皇は太伯の2番目の弟である季歴(虞仲と季歴を混同したものか)の第6代の子孫であるとしています。江戸時代に入ってからは、儒学者の林羅山が神武天皇論で神武天皇の太伯末裔説を肯定しています。


ウマシマジ、タケミカヅチが大和(邪馬台国)ではよそ者扱いされていたのは、刺青をしていたからではないでしょうか。

第142話:邪馬台国全史3~建甕槌 より

「お前だけや。わしの気持ちを分かってるんわ」建甕槌は言った。「わしらは、ヤマトで生まれてヤマトで育った。それでもわしらは、よそもんや。戦で手柄を立ててもそれは変わらんかった」


伊太祁曽神社の神紋は「太」です。 「太」一文字で「太一」この意味は、日本の最高の神という意味です。現在の伊勢神宮でも見られるそうです。この太の意味がいまい分からなかったのですが、太は太伯の太で太伯の末裔ということでしょう。


    :椿井大塚山古墳 伊太祁曽神社



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。






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