卑弥呼の使者(2)~伊聲耆、掖邪拘、戴斯烏越
- tootake
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第678話 #佐味田宝塚古墳 #新山古墳
魏志倭人伝では、前回:卑弥呼の使者(1)~都市牛利で述べたべた都市牛利、難升米の他に、伊聲耆、掖邪狗という人物も魏に派遣されています。
・都市牛利(つしごり?:239年(景初3年)、難升米の副使。
・伊聲耆(いせり?):243年(正始4年)正使
・掖邪狗(ややこ?):同年 副使
・載斯烏越(???):247年(正始8年)、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に訴えるために魏に赴く。
正始四年(243)、倭王はまた使者の大夫:伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将の官位と印綬を授けられた。とあり、掖邪狗は官位と印綬を授けられとあるのに、伊聲耆の名前はありません。このことからこのうち伊聲耆は旅の途中で死亡したのではないかと「邪馬台国発見史」の著者である赤城毅彦氏は、述べられておられます。p229
伊聲耆、掖邪拘の墓として、赤城毅彦氏は、次の古墳を候補としておられます。
・佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん):奈良県北葛城郡河合町にある古墳。形状は前方後円墳。馬見古墳群を構成する古墳の1つです。奈良盆地の南西部にあり、墳丘は前方部を北東に向け全長111.5メートル、後円部直径60メートルで、濠は確認されていません。この古墳からは約36面の銅鏡が出土し、その中に家屋文鏡(かおくもんきょう)と呼ばれている直径22.9センチメートルの大型鏡があり、その鏡の文様は、この古墳に葬られた人々の居館を構成する建物(家屋)を表現したもので、それらの建物は、まつりごと(祭事・政事)や4世紀ごろの地域の首長の日常生活に使用されていたものと考えられています。この発掘で出土した遺物は他に、玉類、石釧(いしくしろ)、鍬形石(くわがたいし)、石製合子(ごうす)、滑石製模造品、銅鏃、巴形銅器、刀子、剣、斧、鑿などです。
・新山古墳(しんやまこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町にあります。形状は前方後方墳。同じく馬見古墳群(南群)を構成する古墳の1つです。
奈良県西部の馬見古墳群に属し、その群中でも初期に築造され、銅鏡ほか多数の副葬品が出土しています。宮内庁によって武烈天皇の大塚陵墓参考地として管理されています。
銅鏡34面出土、その内に直弧文鏡があり、この文様は3、4世紀のころに現れ、直線と弧線を組み合わせて形を作るが、その作図法は極めて難解です。
三葉文を透彫した銀製帯具は、江蘇省宜興(ぎこう)周氏墓*群1号墓(西晋周處墓)その他の六朝期の古墳から出土した帯具と類似性が強く、「その形式といい文様といい、間違いなく」同様の物と中国の考古学者:楊泓氏は言われています。*周氏墓は、墓誌銘によると元興7年(297年)のもので邪馬台国の時代に一致します。
戴斯烏越は247年(正始8年)、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に訴えるために魏に赴いています。正始4年と台与擁立後、台与が王位に就いた直後に魏に赴いています。このことから、台与を擁立した一方の中心人物であることされています。
載斯烏越は、載(うつ)斯(し)烏(う)越(おこ)と読むという説が有力です。すなわちウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。
また掖邪狗は、和邇日子押人(わにひこおしと・稚押彦命)、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子。稚押人が稚彦(わかひこ)で、掖邪狗(わきやひこ)はその音写。
*「若」は台与ですから、和邇日子押人=天足彦国押人は台与と思われますが、掖邪狗が台与であるというのは、検討の余地があります。
このブログでは、第366話:狗奴国と女王国で、狗古智卑狗はウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)とし、女王はウツシコオの姉の卑弥呼(ウツシコメ)としています。
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
卑弥呼のイメージ
