第144話
記紀の国譲りでは、大国主は「わが子の事代主でないと返事ができない。」と答えています。ということは、事代主は、出雲王国の最高権力者です。しかし「出雲風土記」では事代主の名前は登場しませんし、事代主を祀る神社の記載もありません。事代主をを祀る神社は近畿が中心です。事代主はもともと出雲地方とは関係がなかったのです。
高市御縣坐鴨事代主神社(奈良県橿原市に雲梯:うてな)〒634-0834の「出雲国造神賀詞」
「大穴持命(大国主命)が申すには、皇孫が鎮座するこの国を大倭国といい、自分の和魂を八咫鏡に依りつけて倭大物主櫛厳玉命という名を称して大三輪の神奈備に祀り我が子の阿遅須伎高孫根命(アジスキ・タカヒコネ:高日子根)の魂を葛城の鴨の神奈備に祀り事代主命の魂を宇奈提(うなて)に祀り皇孫の守護神といたしましょうと申して、杵築宮(出雲大社)に鎮まりました。」
国譲りは、国家の滅亡であり、出雲国にとっては最大の事件であったのだから、「出雲風土記」でも特筆されるべきことのはずです。しかしこの事件について「出雲風土記」では全く書いてません。このことは、出雲王国が山陰の出雲ではなかった事を示す証拠です。
素戔嗚(スサノオ)は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話で、舞台が出雲となっているだけで、素戔嗚を祀る神社は和歌山(紀ノ國)が中心です。
以上、「邪馬台国発見史」赤城毅彦著より引用
日本書紀では、五十猛(イタケル)は素戔嗚の子で、たくさんの木の種を持って天下り紀ノ國(木の国)に渡ったとされています。五十猛彦は饒速日!
大国主の伝説は、各地にあり各地の豪族の中には大国主の子孫を名乗っていいるものが大勢おり、信濃、越後までに及びます。古事記では大国主がタキリ姫を妻にしたとあります。
高津姫も御保津姫(ミホツ姫)と同様に大国主神の妻とされています。大彦(孝元天皇長子)の母は、古事記では神屋楯比売命、先代旧事本紀では高津比売命とあります。大国主は多岐都比古命とも呼ばれています。これまで述べてきたように。高津姫、ミホツ姫も玉櫛姫で、三島(摂津)の出身です。三穂津姫尊(御保津姫)~亀岡
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前回、御牧入彦(ミ・マキ・イリヒコ)が腰に履いていた太刀は、奈良県天理市布留町にある石上神社のある布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣(隕鉄剣)で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下を通して天皇の元に渡ったとされています。その後物部氏の祖宇摩志麻治命(ウマシマジ)により宮中で祀られていましたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が石上大神にとして祀ったとされています。
島根県にある物部神社の社伝によれば、ウマシマジは美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたといいます。また『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めされています。
1984年、出雲西部の荒神谷遺跡(こうじんだに)遺跡から銅剣358本と銅鐸6個,銅矛16本が出土しました。銅鐸については、同形式の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力です。全部が畿内製造であるとはされていませんが、二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明しています。
また、1996年には、加茂町(現雲南市)岩倉の丘から一か所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見されました。銅鐸は、畿内南部の工人集団製作の横型流水文と畿内北部の工人集団製作の縦型流水文様の2系列がありますが、遺跡出土の流水文銅鐸9口は、全て横型流水文銅鐸であるので、畿内の工人集団が製作したものと考えられています。
「出雲国風 土記」の大原郡神原(おおのこおりかむはら)の郷の段に「天の下造らしし大神の御財(おおかみのみた から)を積み置き給ひし処なり」とあることから、の場所は大国主(オオクニヌシ)が神宝を埋めた場所と想定されています。
これらの、遺跡は道建設工事中に発見されたことからも分かるように、何でもないところに穴を掘って埋めたのです。ただし発見された場所は昔から神庭と呼ばれていました。私は、ヤマト(邪馬台国)を追われたウマシマジが、わざわざヤマトから持ってきて埋めたのだと思います。ウマシマジの憂鬱
ウマシマジが都落ちした場所を出雲(現在の)と呼ぶようになったのです。
崇神朝での大規模の疫病の発生、大国主、事代主、そしてウマシマジといった物部のトップの失脚と銅剣・銅鐸の廃棄は関連した出来事かもしれません。
ウツシコオの策略にかかった、大国主、スクナ彦(鳥取氏の祖)、そしてウマシマジは、そろって根の国に行き晩年を過ごしたようです。
※これまでの記事はこちらです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市千歳町にある神社。
大国主命とその后神の三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え祀り、丹波國に御鎮座なされています。三穂津姫尊(御保津姫)~亀岡

◆ナガスネヒコの七男を逃がしたこと。
ナガスネヒコ本人は自殺し、兄のシキ太郎もタギシミミの命に討たれたとなっているのですが、その七男・髓田輪之男郎(スネタワノオロ)は無罪放免されていますので、東北に逃げた可能性は充分に考えられます。
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中