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投馬国は但馬、但馬は丹波、丹波は出雲

更新日:4月9日

第19話


投馬国は但馬というのは漢字を見ればすぐに推測ができます。水行なんちゃら、陸行かんたらはには、うんざりしていますので、何も言うつもりはありません。が、付け加えるとすれば瀬戸内海経由ではなく、日本海側を後の北前船のように陸を見ながら船で来たと思われます。何人かの研究者も投馬国は但馬説を支持しています。

ところで亀岡に出雲神社(出雲大神宮があるのをご存じですか、社伝では島根の出雲大社よりも古いとのことです。

主祭神は三穂津姫尊(みほつひめのみこと)

”みほつ”は御穂積と書くべきでしょう。ミ・ホツ、ホツは穂積氏のホズ、保津川のホズです。大物主神の后とされているところから玉櫛姫のことでしょう。

亀岡から嵐山に流れる穂津川(保津川)は、前に述べた木津川と同じように古代の高速道路だったと思われます。三島の溝杭などの鴨族、穂積氏は桂川、鴨川、山代川(淀川)を支配下に置き水運を司っていたと思われます。


<私が丹波は出雲と思う根拠>

・能見宿祢は出雲出身とされていますが前にも述べたように『和名抄』には摂津国島上郡(ミマキ国)に「濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆されています。これにより出雲は、ミマキ国(北摂)にかなり近い地域であったことがうかがえます。

※高山右近の高槻城があったりが「のみ」です。〒569-0077大阪府高槻市野見町


丹波でクガミミノミカサが乱をおこしています。

古事記によれば崇神天皇の時代に「日子坐王に丹波国に派遣して、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺させた」とあります。

このクガミミノミカサの本拠地は丹波と言われていますが、今の丹波橋(京阪電車の駅:特急が止まる)の近くで京都府伏見区久我(クガ)東町あたりに拠点を置いていたとおもわれます。

イカガシコヲは出雲シコ、出石ココロの大臣ともよばれています。出石は但馬です。

 イカガは伊加賀で枚方市の地名です。〒573-0066


魏志倭人伝に出雲が登場しないわけは、出雲が但馬国(投馬国)と呼ばれていたすれば、理解できます。また、吉備が全く登場しないのは、魏志が日本海経由で但馬国、邪馬台国にきたとすれば納得できます。投馬国は邪馬台国(大和朝廷)に併合され、その際に併合を嫌った住民が島根(根の国)に移住しそこを出雲としたと思われます。

     <後記>↑

島根県の出雲という地名はその当時存在していなかったと思うようにいたりました。

タケハニヤスの根拠地は、愛宕郡(おたぎぐん)であったと思われます。愛宕郡は乙訓(おとくに)郡の別名で、京都市北区の一部:紫野・紫竹・大宮・西賀茂・出雲路・小山・上賀茂・鷹峯・雲ケ畑を指します。賀茂川の周辺です。タケハニヤスは、この愛宕郡をみずから、国(クニ:狗奴)としていたのだと思っています。このプログでは、タケハニヤスが大規模な反乱を起こしたため、大和朝廷では反逆者を出雲と呼ぶようになったというのがテーマの一つになっています。タケハニヤスを討ちちとった大彦(=大国主)も後に時の宰相のウツシコオによって出雲と呼ばれるようになってしまいます。タケハニヤスの乱最終章


<関連項目>

第165話~出雲神話を疑う1:出雲振根(いずもふるね)


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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