第179話
今回は、牧野車塚古墳から真西に行ってみましょう。高槻・上宮天満宮があります。
この地は、天神山(てんじんやま)、日神山(ひるがみやま)と呼ばれる丘陵上で、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したといいます。
正暦4年(993年)、菅原為理が太宰府に下向して菅原道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地(高槻)に達した時に急に牛車が動かなくなりました。為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが上宮天満宮の始まりです。道真を祀った社としては太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古いものです。
もともとこの地は、延喜式神名帳に記載される摂津国島上郡 野身神社があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられています。それが後になって道真を祀る天満宮が創建されました。野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にあります。
大阪府高槻市の上宮天満宮は境内の野身神社に「式内野身神社并野見宿禰墳」の石柱が立ち、かつて周辺に土師一族が住みついていたことが書いてあります。(下図参照)
『和名抄』には摂津国島上郡に「濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆されています。高山右近の高槻城があった辺りが「のみ」です。現在、この場所に野見神社が建っており、能見宿祢も祭られていますが、能見宿祢の伝承は残っていません。〒569-0077大阪府高槻市野見町
10世紀末に高槻城が築城されると城内守護として崇敬されていましたが、16世紀に高山右近が高槻城主となったとき、右近はキリスト教徒だったため高槻城内にあった野見神の社殿を破壊し、社領を没収したそうです。
このように野見宿祢は高槻の出身ですが、何故か出雲出身とされてしまっています。出雲風土記に「野見」は、飯石(いいし)郡条に「能見」地名の記載があり、この地の出身とされているという記述があるためでしょう。
奈良県にも野見宿禰の墓があり、野見宿禰と当麻蹴速が取り組みをした「相撲発祥の地」とされています。
日本書紀に「垂仁天皇32年に皇后の日葉酢媛命が亡くなると、天皇はその葬礼をどうするか群臣に諮問した。当時の風習で殉葬が行われると、悲惨な光景が展開したので、天皇はそれを何とかしたいと考えた。その時、野見宿禰が、出雲国の土部100人を呼び寄せ、彼らを使って土で人や馬など様々な物の形を作り天皇に献上した。ここに殉葬の風はなくなり、天皇は野見宿禰を土部職に任じた。これが、土部連らが天皇の喪葬をつかさどるようになった由縁であり、野見宿禰は土部(土師)連らの始祖である。」との記載があります。もちろん歴史的事実ではありません。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<関連項目>
野見神社(のみじんじゃ)大阪府高槻市野見町