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出雲の神宝

更新日:2023年12月2日



第166話~出雲神話を疑う2。


前号で述べた出雲の神宝は現在どこにあるかといいますと、大阪府富田林市宮町の美具久留御魂(みぐくるみたま)神社にあります。


神宝は生太刀・生弓矢とされていま。生太刀は出雲大社の神劍で、これを当社祭神の大国主神の御神体とすべく崇神天皇が出雲振根に使いを遣わし、弟の飯入根が献上、後で知った振根が弟を殺した物語が崇神紀に書かれています。

日本書紀の崇神紀に、吉備津彦らを出雲に派遣し出雲振根を誅したので、出雲臣等は「この事に畏れて大神を祭らなくなった。そこで丹波の氷香戸辺の託宣(*注下記)があり、皇太子が天皇に奏して祭ったとの記事があります。この「祭った」と言うことを鏡を出雲臣に返却したものかとしていますが、それなら皇太子が祭ったとは言わないはずです。この事は出雲大社に替わって美具久留御魂神社を創建し、出雲大神を祭ったということではないでしょうか。


この神社の主神は美具久留御魂神で大国主命ことととされています。この神社の付近は喜志(きし)台地と呼ばれ、尺度、蔵の内を包含した弥生時代の水分文化圏の中心地です。 ここから2km北で銅鐸が発見されています。

 

その頃の社司を支子(きし)青箭有禰と云うそうです。当地には任那からの渡来人の大国吉士が住んでいた所で、地名も河内国石川郡大国郷といいます。吉士(きし)とは、古代朝鮮において「王」・「首長」を意味する称号です。この当地の吉士は朝廷の屯倉を管掌したようで、当神社の東1kmに桜井屯倉がありました。本殿の背後の真名井ヶ原の丘陵にある宮裏山古墳は古来神奈備山とよばれる神体山です。


伝説に依れば太古大国主命の天の下を治められ給ひしとき、此の地に御城ありて、神武天皇の御世に至るまで猶存せしが,社は其の御城の氏神にして出雲大社の創建よりも早かりしなりと、叉一説には其の創立は神代に ありとし或は亦神武天皇の八年なりなどとも伝えらるヽ處より見て此の伝説を其儘信ずる能はずとするも創祀の遠 く上古に在りしを想見し得べし。


ということは、前号の「天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上し、そのことが気に入らなかった出雲振根は飯入根を謀殺します。そのことにより出雲振根は大和朝廷に誅殺されています。」という話はすべて作り話で出雲の神宝は初めからここにあったとのではないでしょうか。この神社の「社頭の略記」には、崇神天皇の御代、この地に大蛇が出没し、これを大国主の荒御魂のしわざとし、ここに奉斎したのが創始であるといいます。この話がスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治になったのかもしれません。



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*注)氷香戸辺の託宣


出雲臣(イズモノオミ)たちは(討伐を)恐れるあまり、大神(=出雲の神=オオクニヌシのこと)を祀るのを怠りました。丹波(タニワ)の氷上(ヒカミ=兵庫県氷上郡氷上町)に氷香戸邊(ヒカトベ)という人がいました。氷香戸邊(ヒカトベ)は皇太子の活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)に会って言いました。

「わたしには小さな子があります。

自然と(何も教えないのに)こう言いました。

『玉菨鎭石(タマモノズシシ)

出雲人の祭る

真種(マタネ)の甘美鏡(ウマシカガミ)。

押し羽振(ハフ)る、

甘美御神(ウマシカミ)、

底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)。

山河(ヤマカワ)の水泳(ミククル)御魂(オンタマ)。

静かかる甘美御神(ウマシミカミ)、

底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)』

菨は毛(モ)と読みます。


歌の意味

玉藻の中に静かに眠っています。

出雲の人が祭る、立派な大事な鏡が

すばらしい神が、

水の底に眠っています。

神霊が山河の水に沈んでいます。

静かに掛けて祭らなくてはいけない立派な鏡が

水の底に沈んでいます。


これは小児(ワクゴ)の言葉ではありません。

もしくは(神が)託(ツ)いて言っているのでしょう」

そこで皇太子は天皇に報告しました。

天皇は詔を発して、祭らせました。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。



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