第217話
第2代天皇である綏靖天皇の后は五十鈴依姫(いすず・より姫)つまり五十鈴姫?と思ってしまいます。しかし綏靖天皇の母は媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメ・タタラ・五十鈴姫)で五十鈴依姫は、媛蹈鞴五十鈴媛命の妹だそうです。
神武天皇の后が媛蹈鞴五十鈴媛命で、その子の綏靖天皇の后が五十鈴依姫です。
第147話~五十鈴姫は乙姫(オトヒメ)お多福さんと五十鈴姫 (hidemaru3375.com)では、こう書いています。
五十鈴姫は二人いたそうです。記紀には、事代主神の大女(えむすめ)こと媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ: 伊須気余理比売:イスケヨリ姫)を皇后としたとあります。また、事代主神の少女(おとむすめ)五十鈴依媛命(イスズヨリ姫)を第二代 綏靖天皇の皇后にむかえたかいてあります。つまりイスケヨリ姫とイスズヨリ姫は別人で姉妹だということです。
私の考えでは神武天皇も綏靖天皇も架空の天皇です。神武天皇は饒速日(孝元天皇)、綏靖天皇は大彦(大国主)をモデルとして記紀によって創作されたのです。
五十鈴姫は、崇神天皇(ミ・マキ・イリヒコ)の后です。五十鈴姫は大彦の娘とされるミマキ姫(御間城姫)です。実際、古事記(武埴安彦の乱の条)では、崇神天皇は大彦命を伯父と呼んでいるので、崇神天皇と従兄妹であるとされています。第68話ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
では五十鈴依姫(少女:おとむすめ)とは誰なのでしょうか。第215話で書いた高照姫ではないでしょうか。高照姫は、大彦の子ですが、大物主(この場合は饒速日)の子ともおもわれます。御間城姫は大彦の子で、五十鈴姫は饒速日の子です。
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<追記>
日本書紀』の安寧紀によると、五十鈴依媛命は事代主神の少女(おとむすめ)とあり、これは綏靖紀二年条に「(安寧天皇の父である綏靖天皇は)五十鈴依媛を立てて皇后と為したまう。すなわち天皇の姨(みおば)なり」とあるのと合致します。なお、古事記には五十鈴依媛命は登場せず、河俣毘売が綏靖天皇の皇后です。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。
小手保といわれた川俣地方は、奈良興福寺の荘園として繁栄しました。
川又 (和歌山県日高郡印南町)
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫