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花山天皇と仏眼上人

tootake
1 日前
読了時間: 10分

更新日:7 時間前

第1178話


先達(せんだつ)とは、特定の寺社・霊山へ参詣者を道案内し、宗教的指導を行う人のことです。元来は、学問や技芸の先覚者もしくは優れた者、師匠・先輩で、峰中の行路などに精通した峰先達と霊験所などへの道案内を行う道先達に分かれるが、いずれも熟達した修験者・山伏つとめていました。


花山天皇の西国巡礼の先達は、仏眼上人であるとされています。


仏眼上人は聖徳太子墓で花山法皇の前に忽然と現れとされているように、聖徳太子と関係のある人物です。


仏眼上人に関連する寺院や史跡は大阪府内に点在しています。


宝珠寺(ほうじゅじ)も、大阪府中市熊野町にあります。寺の下には神社(八坂神社、もとは東山感心院祇園社と関係の深い牛頭天王社・熊野権現社)があります。この寺は全国的にも珍しく、神社の上座に寺が遺り、神仏習合の状態をよくのこした神社です。

宝珠寺には、石造三重宝篋印塔2基があり、花山院と仏眼上人の墓塔と伝えられています

長徳期(995年~998年)の創建で、仏眼の開基と伝わっています。 起源は、摂津名所図会に、花山法皇が仏眼のもと、観音霊場巡拝の時、地形が紀州の熊野に似ていることもあり、この地の「くす谷山」に熊野権現を祀り、熊野に模して神仏の祀場を造営したとされています。これが「熊野代山」の山号、熊野町の地名の由来であり、八坂神社の由来でもあるとされています。

金銅菩薩立像 飛鳥様式であり飛鳥時代後期のものと伝えられ、1年に1度しか拝観することができない秘仏です。

本尊の木造彩色聖観音菩薩立像、平安時代後期に作られ、行基作といわれています。

行基と台与の関係はこのブログで何度も書いています。豊中の「豊」は台与(豊)のことでしょう。熊野は台与と関係の深い地です。→熊野の神々は、、、


仏眼寺(ぶつげんじ)も、大阪府中市熊野町にあります。宝珠寺の奥の院の跡地と伝えられています。


大阪府南河内郡太子町葉室に、仏眼寺跡(ぶつがんじあと)があります。

仏眼寺跡は、河内名所図会に「西国巡礼元祖の寺」と紹介され、付近には石塔などが残されています。この仏眼寺のすぐ近くに、聖徳太子墓=叡福寺(磯長墓)があります。

叡福寺と仏眼上人には非常に深い関係があります。仏眼上人はもともと、叡福寺(当時は河内国石川寺と呼ばれていました)に住んでいた僧侶(住職)とされています。

このことにより、仏眼は聖徳太子と非常に関係の深い人物であることがわかります。


第1176話:花山天皇と西国三十三番札所では、寛和の変で退位した花山天皇が仏門に入って法皇となると、徳道が納めた宝印の話を聞き永延2年(988年)にこれを探し出して石の櫃から取り出し、後に西国三十三所観音霊場を再興させたとされています。

この徳道が納めた宝印というのが、大和朝廷の初代天皇は台与という13歳の少女だったという極秘文書だった。というのが、私の推理です。と書きました。


一晩考えたのですが、この私の推理は、全くの的外れであることに気づきました。

花山天皇が、大和朝廷の初代天皇は台与という13歳の少女だったという極秘文書だったとすれば、花山天皇はせっかく発見したその極秘文書をなぜ公開しなかったのでしょう。

花山天皇は、藤原一族の陰謀で退位させられていおり、藤原一族の支配する大和朝廷に恨みを持っていたはずで、その極秘文書を公開すれば、万世一系を堅持する大和朝廷に一泡吹かせられたはずです。


しかし、そんな形跡はありません。西国三十三番がウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王=難升米・台与に関わってきたことはこのブログで述べてきました。しかし、花山天皇が西国三十三番にかかわったされることによって、台与の痕跡は消えてしまったのです。西国三十三番では、台与は聖徳太子にされてしまったのです。


そして、仏眼上人が実在したことを示す一次史料や信頼性の高い公式な公文書などは乏しく、主に中世以降に成立した寺社縁起や伝承(『中山寺来由記』や『谷汲山根元由来記』、あるいは西国三十三所の縁起類)の中にその名前が登場するだけです。

現在の歴史学的な観点においては、仏眼上人自身が確実に実在した歴史上の人物であるかを示す決定的な同時代史料はなく、伝説上の人物(あるいは花山院の巡礼伝説に付随して語られるようになった僧侶の姿)として扱われることが一般的です。

伝説では、この仏眼上人は実は人ではなく「熊野権現(神様)の化身」であったとされています。権現は台与です。~第720話:中臣印達神社:権現は台与


つまり、仏眼上人も創作された実在の人物ではないのです。では、花山天皇は先達さん無しで三十三番札所を回ったのでしょうか?


実は、花山天皇が、中山寺、書写山以外の寺を訪れたという資料もないのです。


その点をAIに調べてもらいました。


  • 『中山寺来由記』 および 『谷汲山根元由来記』:西国三十三所の縁起を伝える寺記であり、花山院の巡礼の先達として仏眼上人の名前が記されています。

  • 各地の縁起・伝承(中山寺、谷汲山など):西国三十三所の各霊場が伝える縁起や縁起絵巻などでも、花山院を案内した人物として仏眼上人の名前や伝承が伝承されています。

  • 石造物・碑文:ページ内にも記載がある六甲比命神社の仰臥岩にある「熊野権現・花山法皇・仏眼上人」の連名碑や、豊中市の宝珠寺にある花山院と仏眼上人の墓塔と伝えられる石造寳篋印塔など、後世に造立された石造物や伝承地が実在の痕跡と結びつけられています。

1. 史料上で確実に認められる訪問先

  • 元慶寺(がんけいじ)(京都府京都市山科区)

    • 形跡・史料: 寛和2年(986年)の「寛和の変」の際、藤原道兼らに欺かれて内裏を抜け出し、電撃的に出家・落飾した寺です(当時は「花山寺」とも呼ばれた)。『大鏡』などの歴史物語や各種史料にその詳細が克明に記されています。

  • 書写山 圓教寺(えんぎょうじ)(兵庫県姫路市)

    • 形跡・史料: 寺側の古記録等によると、花山法皇は寛和2年(986年)の出家直後を含めて生涯に二度(1度目は寛和2年、2度目は長保4年[1002年])行幸(または入山)したという記録が残っています。開祖である性空上人との深い交流が伝えられています。


  • 熊野三山(特に那智山・青岸渡寺など)(和歌山県)

    • 形跡・資料: 法皇は熊野へ長期の参籠(千日修行など)を行い、那智山の滝の近くなどに庵を結んだという伝承や『源平盛衰記』等の記述があります。また、道中の「箸折峠」には法皇の姿と伝える牛馬童子像があるほか、『後拾遺和歌集』などの歌集には熊野道中で詠んだとされる和歌が残されています。

  • その他の西国三十三所霊場(石山寺、長谷寺、三室戸寺など)

    • 形跡・資料: 西国三十三所の各寺院に伝わる縁起や御詠歌(法皇の御作と伝わる)によると、法皇が巡礼の途中で各寺を訪れ、歌を詠んだとされています。ただし、書写山や熊野などを除けば、当時の公卿の日記などの同時代一次史料で実際に一寺一寺を巡ったことが裏付けられるものは多くありません(学術的には後世に法皇の権威を付す形で形作られた伝説部分が大きいとも指摘されています)。


歴史的公文書や同時代の日記などの確実な一次史料で裏付けられる「実際に赴いたことが確実視される寺」は、出家の舞台となった元慶寺と、公式な行幸記録がある書写山圓教寺が中心となります。それ以外は、熊野古道沿いの伝承や歌集の詞書、後世の寺社縁起によって足跡が伝えられている形となります。


書写山圓教寺や中山寺、元慶寺のように当時の公卿の日記や寺の公式記録といった確実な一次史料で足跡が裏付けられているのは一部にとどまります。


その他の寺院に関しては、中世以降に成立した『西国三十三所観音霊場記』などの縁起や、各寺に伝わる伝承・法皇の御詠歌とされる和歌が主な根拠となっており、歴史学的な「実際に訪れた動かぬ証拠」があるわけではありません。


西国三十三所巡礼の開創譚そのものが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて形作られた宗教的伝承の色彩が濃いため、法皇の巡礼伝説と結びついた多くの寺々については、「史実としての来訪の証拠はないが、中世以降の信仰の歴史の中で法皇の足跡として語り継がれてきた」というのが正確な位置づけになります。


花山天皇と西国三十三番が関係あるとされているのは、誰か(藤原 兼家?)によって、西国三十三番札所にある台与の痕跡を聖徳太子に置き換えるためです。

花山天皇は、この話の信憑性を高めるためにだけに登場させられたのです。


聖徳太子は、台代です。→聖徳太子は台与~AIとの対話(17)



これまでに書いた 西国三十三所の記事

(1)青岸渡寺 →第543話:熊野の神々は、、、 

(2)金剛宝寺(紀三井寺)→第590話:彦狭知(ヒコサチ)の物語2 

(3)粉河寺 →第768話:長髄彦と粉河寺~那賀郡

(4)施福寺→第850話:hidemaru3375.com/post/槇尾山-施福寺 

(5)葛井寺→ 第794話:葛井寺と王辰爾 

(6)南法華寺(壺阪寺) → 第796話:壺阪寺と台与

(7)岡寺(龍蓋寺)→ 第795話:岡寺と台与(豊) 

(8)長谷寺 → 第666話:元伊勢(13)~長谷寺・與喜天満宮 

(9)興福寺 南円堂 → 第793話:空海(6):虚空菩薩 

(10)三室戸寺 →第723話:三室戸寺~宇治(莵道)

(11)醍醐寺 上醍醐准胝堂 →第855話:醍醐寺と白髪の老人

(12)正法寺→第858話:岩間寺と狗奴国:塔の峰

(13)石山寺 →第857話:石山寺:石(岩)と金

(14)園城寺(三井寺 観音堂)→第860話 :園城寺(三井寺)

(15)今熊野観音寺→第861話:今熊野観音寺:熊野権現の出現伝説 

(16)清水寺→清水寺と地主神社 

(17)六波羅蜜寺:六波羅蜜寺と銭洗い弁財天

(18)六角堂→第519話:六角堂と平安京(頂法寺)

(19)革堂(行願寺)→第856話:行願寺と狩人 

(20)善峯寺 →第859話:善峯寺と鷲尾寺

(21)穴太寺→第824話:穴太寺と穴太衆=土蜘蛛 

(22)総持寺 → 第823話:総持寺幻想~大阪府茨木市

(23)勝尾寺→勝尾寺と三所権現 

(24)中山寺 →第706話:中山寺・清荒神・売布神社~宝塚市

(25)播州清水寺 →播州清水寺:法道仙人

(27)圓教寺 →第843話:弁慶 大物(だいもつ)・書写山

(28)成相寺 →第867話:成相寺:文武天皇は台与

(29)松尾寺:第868話:松尾寺と彌伽冝神社・阿良須神社

(30)宝厳寺→第705話:竹生島神社・宝厳寺 ~琵琶湖 

(31)長命寺→ 第709話:hidemaru3375.com/post/長命寺:武内宿祢と聖徳太子 

(32)観音正寺:観音正寺と人魚伝説

(33)華厳寺→第725話:谷汲山(たにぐみさん):大口大領

 番外 元慶寺(山科)→第720話:毘沙門堂~京都市山科


これまでの記事はこちらです。


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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>










 
 
 

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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秀丸 遠嶽
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