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台与は饒速日②~交野市倉治

tootake

更新日:2024年10月29日

第484話 #饒速日(ニギハヤヒ) #台与(豊) #磐船神社 #タカクラジ


饒速日(ニギハヤヒ)は、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね:磐船神社周辺)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされています。


第430話:倭(やまと)は高槻市、葛城は交野市で書いたように交野市郡津(こうず:高津)辺りは、片野物部の本拠地です。高倉下の名前の元になった倉治(くらじ)もここです。「葛城高宮 我家(ワギヘ)のあたり」です。ということで疫病の大流行でこの地が放棄されるまでは葛城は交野市であることが言えます。


つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(オダテ) 倭を過ぎ 我が見が欲しく国は 葛城高宮 我家(ワギヘ)のあたり


倭(ヤマト)は高槻とすれば、「倭を過ぎ」の意味が分かります。奈良=茨木、小楯(オダテ)=枚方で山代川(淀川)から天の川に入り上流に向かえばそこは郡津(こうず:高津)です。参照:第18話:本当の奈良 、第447話: 小楯姫は台与:小楯は枚方


第82話:高津姫 ~岩船街道第110話:星の降る町~速玉は饒速日で書いたように、交野市は饒速日との関連が深い場所で、片野物部(交野)の本拠地です。交野市倉治に祭られていあるある天棚機比売大神(あめたなばたひめ)は卑弥呼(ウツシコメ)とでしょう。


交野市に私市(きさいち)という地名があります。日本書紀では577年敏達天皇の皇后、御食炊屋姫尊(ミカシキ姫*:後の推古天皇)にこの地を献じて、ここが私市部となった とされています。この地区は地味肥え作物豊かな野であったので「甘野」といわれ、後に天野(あまの)となりました。古事記・日本書紀に出てくるアマ・アメはこの交野市私市(天野)が起源です。*記紀では、御食炊屋姫尊(ミカシキヤ姫)は、長髄彦の妹で、饒速日(ニギハヤヒ)の妃であるとされています。


すぐそばの大阪府交野市倉治は高倉下(たかくらじ)の屋敷があったと思われます。

高津姫 ~岩船街道で書いたように高津は、交野市郡津(コウズ)です。葛城高宮はこの交野市交野市郡津です。


高津姫*、高照姫、高日子根(阿遅鉏高日子神:高彦根)・高倉下(エクラジ:兄クラジ)、弟倉治(オトクラジ)=宇摩志麻遅命、高津姫(こうず姫)、高照姫など高のつく名前の人物はいずれも台与(豊)のことで、高津(コウズ:交野市郡津)に住んでいたことを表していると思われます。高天原も交野市です。交野市 天野が原町〒576-0034

*高津姫の別名は多岐津比売命、湍津姫命=宗像三女神(ムナカタは南方:宗像氏はタケミナカタ!=台与)


この交野市倉治は饒速日(ニギハヤヒ)の拠点であったことは間違いないでしょう。

饒速日は台与(豊)ということです。


*高倉下(兄クラジ)は大彦、オトクラジ(弟クラジ)はウマシマジのことで、ウマシマジはすでに台与としています。参照:ウマシマジは台与!

海部氏勘注系図には彦火明命は、亦(また)名 宇摩志麻遅命(ウマシマジ)、亦名、豊饒速日とあります。

オトクラジは、日本書紀の兄磯城(エシキ)との戦いで登場ます。

磐余彦は諸将を集めて兄磯城をどうすべきか、と尋ねた。諸将は兄磯城が悪賢い賊であることを指摘し、「まず弟磯城に説得させ、それでも駄目なら兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)兄弟に交渉させ、それでも帰順しなければ、兵をあげてのぞんでも、遅くはないでしょう」と言った。→そして日本書紀ではこの後、突如、饒速日(ニギハヤヒ)が登場します。


そして御食炊屋姫尊は卑弥呼ですと言いたいのですが、推古天皇の和風諡号は御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと(日本書紀)、古事記では御食炊屋比売命で、(トヨ)がついています。卑弥呼はこの高津(市郡津:コウズ)の地を台与に譲って、滋賀県の伊勢遺跡に移ったものと思われます。参照:第362話:伊勢遺跡~瀬田川が京治バイパス



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>








 
 
 

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 28, 2024
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