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饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作

更新日:10月28日

第483話 #ニギハヤヒ #台与 #邪馬台国 #ヤマトトモモソ姫


このブログを始めて1年以上たちます。台与(トヨ)、スサノオ、卑弥呼についてはそこそこ解明できたと自負しています。しかし、饒速日(ニギハヤヒ)の実像についてはいまだに不明なままでです。そこで過去の部分を見直してみました。


今まで饒速日(ニギハヤヒ)については、下記のような記事を書いています。


つまり饒速日(ニギハヤヒ)は、武人としては全く活躍していません。それよりも稲作(農耕)の神としての側面が見えてきます。


そして、すでに火明命は台与(豊)としています。第353話:国譲り~タケミナカタは饒速日??では、タケミカズチ=タケミナカタ=饒速日(ニギハヤヒ)としています。


つまり饒速日(ニギハヤヒ)は台与なのではないでしょうか。


そんなことを言えば、100%の人はそんなことはあり得ない、めちゃくちゃな発想だとおっしゃるのはよくわかります。


饒速日(ニギハヤヒ)は河内の大王で、台与は13歳の少女です。あまりにもイメージがかけ離れています。しかし、台与(豊)も邪馬台国の大王なのです。しかし魏志倭人伝には卑弥呼の次に台与が大王(おおきみ)になったと書いてあります。


◎稲作と台与

香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)があり、倭迹々日百襲姫命を祀っています。社伝ではヤマトトモモソ姫は7歳のとき倭国大乱を逃れるため、大和国黒田の盧戸を出立し、居を讃岐国水主に定めたのち成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆を成したとされています。ヤマトトモモソ姫は台与です。


hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 (第459話)で書いたように、秦氏が台与の後ろ盾になり、両者が協力したことによってヤマト=邪馬台国は、大規模な土木工事ができるようになりました。亀岡の干拓(参照:秦氏と大山咋神 丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!)や香川県で農地の開墾、開拓を行い四国の人々に食料を安定して供給することができたのです。参照:大宜都比売(おおげつひめ)は台与


また丹波の地名の由来として、「諸国名義考」には「田庭なるべし」とあります。これは、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲を作っていた広く平らな場所の意味だといいます。昔は赤米が主流だったので、 「赤い米がたわわに実って風にそよぐさまが赤い(丹)波のようみ見える」というように解釈されています。


倭迹迹日百襲姫命は7・8歳で台与は13歳で記紀に登場します。なぜこんな幼い女の子が高度な農業技術を持っていたかというと、第425号:秦氏と大山咋神 で述べたように、

台与の背後には秦氏が付いていたからです。秦氏は潅漑用水・港湾の修築まで、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術を持っていました。京都の伏見神社は、元々は秦氏の神を祭る神社でした。で渡来人であった秦氏の稲荷信仰をもとに、秦氏の勢力拡大に伴って伏見稲荷の信仰圏も拡大されていった」と日本民俗大辞典に書かれています伏見大社の稲荷神(宇迦之御魂神うかのみたま)も倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)=台与です。


<饒速日と稲作>

第23話で述べた茨木市にある新屋坐天照御魂神社は福井神社とも呼ばれ饒速日が天下った場所とされています。この他田坐天照御魂神社は「日読み」の神社です。石見の鏡造り神社である石見と他田を結ぶと、その線は三輪山山頂にいたり、その頂上から朝日を、石見からは冬至、他田からは立春・立冬に見ることができます。その拝礼地となっているのが当社近くのの石塚古墳です。考古学者の森浩一氏は、この古墳を「冬至・夏至」の祭祀を行った祭壇があった円丘ではないかとみておられます。つまり、ここから三輪山と太陽の位置関係を巨大な自然のカレンダーとして観測できる地なのです。古代史研究家の大和岩男氏の説を引用です。


福井(茨木市)の天照御魂神社は、三島の重要な神社で太陽祭祀に関わっており、この神社を通る南北線に対してそれぞれ東方へ30度・45度・60度の位置にある天岩門別神社は30度、溝杭神社(茨木神社内)は45度、西川原にある天照御魂神社は60度です。

饒速日を祀る天照神社はまさに太陽信仰の祭祀場だったのです。<引用ここまで>


太陽観測「日読み」の技術がなぜ重要かというと稲作です。日本では古くから重要な食糧作物であり、稲は太陽の光を利用して成長します。稲作において太陽の高度や日照時間は重要な要素です。饒速日を祀る物部一族はこの日読みの技術を持っていたのです。

敏達天皇はこの茨木市の新屋坐天照御魂神社が太陽信仰の祭祀場のことを知っていたのでしょう。三島の地が疫病(コロナ)の大流行により放棄されてしまい代わりの三輪山周辺にある他田坐天照御魂神社に同じような太陽観測の場を作ったと思われます。


なお饒速日(ニギハヤヒ)と同一人物とされる大歳は、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれます。

「年」は稲の実りのことで、穀物神です。


饒速日は功績は戦の手柄ではなく農耕を推進した点です。饒速日は農耕の神である大年神です。第259話:大歳~稲耕の神  第221話:饒速日は稲作の神


今でも天皇家では米を突き固めて山盛りにして供える儀式を行っています。

新嘗祭、大嘗祭(だいじょうさい)では、天皇が神々に新穀をお供えし、国家・国民の安泰と五穀豊穣(ほうじょう)を感謝し祈ります。大嘗祭は、日本の農耕文化に根差した儀式です。大嘗祭では、天皇陛下がそれぞれの地域でその年に収穫された米や粟(あわ)などを、皇祖とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)とすべての神々に供え、自らも口にします。参照:饒速日と長脛彦


記紀の作者たちも台与が大王であることに大きな違和感を感じたことは、容易に想像できます。台与が、ヤマト(邪馬台国)の大王であったことを徹底的に抹殺したのです。台与=饒速日は日本の歴史からは完全に葬り去られました。



続く 次回:饒速日(ニギハヤヒ)と台与2~交野市:河上哮ケ峯(いかるがみね)



※これまでの記事はこちらです。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





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