八坂神社と朱智神社
- tootake
- 2月1日
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更新日:2月11日
第945話
八坂神社は、清水寺と同様に京都で非常に有名な観光地です。地元の人々は、八坂神社を「祇園さん」や「八坂さん」と呼びます。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られています。全国にある素戔嗚(スサノオ)を祭神とする関連神社の総本社とも言われています。
八坂神社の起源には、いくつかの説があります。一つは、貞観18年(876年)に僧・円如が観慶寺を建立した際、祇園神が東山の麓に降り立ったというものです。もう一つは、斉明天皇2年(656年)に高句麗の使者が新羅国の牛頭山の須佐之男尊を祭るために建てたという説です。
第331話::朱智神社~迦邇米雷王では、朱智神社について触れています。朱智神社は、京都府京田辺市天王高ケ峰に位置しています。祭神は、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)です。この神は息長氏の祖とされています。
桓武天皇の時代には、「建速須佐之男命」を相殿に祀って「大宝天王」と呼ばれました。清和天皇の時代には、朱智神社の大宝天王が八坂神社へ勧請されました。かつては毎年「榊遷し」の行事が行われていました。この朱智神社の最寄りのバス停は「天王」です。天王は素戔嗚(スサノオ)を指します。この地域の地名は天王であり、ここ一帯は天王=素戔嗚が支配していたと考えられます。
京田辺市の観光案内によると、仁徳天皇時代(313〜399年)に現在の地より西方の西峰山頂に創建されたとされています。延暦12年(793年)には、大宝天王と朱智天王が同殿に祀られました。貞観11年(869年)には、朱智神社の祭神であった迦爾米雷命(かにめいかづちのみこと)が八坂神社の前身である八坂郷感神院に遷されたとされています。
祇園祭の際、朱智神社の氏子が奉じた榊を天王区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事がありました。この行事は貞観時代から続いていましたが、現在では行われていません。しかし、その榊を受けて山鉾巡行が始まったと言い伝えられています。
つまり、八坂神社は京田辺の「天王」から京都市へ移動したのです。京田辺市はウツシコオの拠点地であり、ウツシコオ(内色許男命)はスサノオとも関連があります。考古学者の上垣内憲一先生は、内色許男命の出身地を内里であるとしています。
出自不明の習合神「牛頭天王」は、祇園精舎の守護神とされています。牛頭天王は日本独特の神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされています。陰陽道では天道神と同一視されることもありますが、中国の文献には見られない日本独特の存在です。
牛頭天王は、仏の守護神であり、台与の守護神でもあります。八咫烏や猿田彦とも関係が深いです。牛頭天王の牛頭からは、頭に角が生えた人が連想されます。この角はウツシコオのキーワードとも言えるでしょう。
清水寺は八坂神社と同じ東山の山麓に位置しています。坂上田村麻呂は観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したとされています。つまり、清水寺のあった場所は坂上田村麻呂の住居があった場所です。つまり、坂上田村麻呂=スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米であるとも思えるのです。
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台与(豊)は、魏志倭人伝に書かれている13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物です。
ウツシコオは、魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
今までのところ矛盾なくここまで書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
<目次>