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八咫烏の活躍

更新日:3月5日

第83話 ~八咫烏は事代主??


三島の溝杭は八咫烏=事代主だとされています。


磐余彦の軍は高倉山の国見丘に女坂に女軍、男坂に男軍、墨坂にを置いた(それぞれ現在の大宇陀町上宮奥付近、半坂付近、宇陀市榛原区西方の坂と言われています)。この時、丘の上には八十梟帥(やそたける)軍が構えており、磐余邑(いわれのむら)には兄磯城(えしき)の軍が満ち溢れており、皆要害の地であり、道路が絶え塞がって、通れるところがなくなっていた。


女軍・男軍は、第一部隊、第二部隊の意味です。この物語は、ウカジ兄弟(エウカシ、オトカシ)の話と酷似している同じ話を書き換えただけだと思われます。ヤタガラスは、三島のミゾクイ (hidemaru3375.com)


ウツシコメ(アマテラス)の命令(注*下記参照)で、八咫烏は神武(孝元天皇)の救援に向かいます。日本書紀では八咫烏は天照大神によって遣わされたと書いてあります。


磐余彦(孝元天皇=饒速日)は先に八十梟帥を倒し、道臣命(大伴氏)に司令して残党を宴饗(酒宴)にかこつけて騙して皆殺しにした。それからは磯城彦を攻めようとして、使者を遣わして、兄磯城を呼び出そうとしたが、応じなかった。そこで八咫烏を遣わし、このように告げた。


兄磯城は以下のように答えた。

「烏鳥(からす)の若此(かく)悪(あ)しく鳴く」 (天神が来たと聞いていきどおっている時に、なんで烏がこんなに悪く鳴くのか)こう言って、弓を引いて、追い払った。


八咫烏(事代主)は、続けて弟磯城の家に行き、彼を従わせることに成功した。


磐余彦は諸将を集めて兄磯城をどうすべきか、と尋ねた。諸将は兄磯城が悪賢い賊であることを指摘し、「まず弟磯城に説得させ、それでも駄目なら兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)兄弟に交渉させ、それでも帰順しなければ、兵をあげてのぞんでも、遅くはないでしょう」と言った。


倉下兄弟とは、大彦ウマシマジのことと思われます。二人とも饒速日(孝元天皇)の息子です。交野市倉治で育ったとおもわれます。


その後、椎根津彦の計により、女軍を忍坂に派遣して兄磯城軍の精兵をおびき出し、男軍を墨坂から出して挟み撃ちにした。椎根津彦については次回で述べます。


度重なる戦いのため、さすがに磐余彦軍も疲勞困憊していたいました。この時の歌が以前紹介したこのす。久米歌の謎解き~宇陀市榛原 (hidemaru3375.com)

「伊那瑳の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた、鵜飼をする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ」


こうして、神武(孝元天皇=饒速日)は危機を乗り越えたのです。

事代主は大彦の子の武渟川別(タケヌナカワ)です。

大彦(大国主=高倉下)の救援に子の事代主が八咫烏として参戦したのです。


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<後記>

吉井良隆は「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社)の奥夷社の元宮」と推測しておられます。

西宮神社=エビス(戎、恵比寿)=事代主


椎根津彦命は保久良神社(ほくらじんじゃ)に祀られています。兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良山(金鳥山中腹)に鎮座する神社である。金鳥山の金鳥とは、金鶏~神武天皇の弓に止まったとされています。金鵄および八咫烏はともに賀茂建角身命(事代主)の化身とされており、この二つを合わせて「金鵄八咫烏」と呼ばれています。


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*注)その後の、検証でこの時期(BC230年頃)は、まだ卑弥呼(天照)もウツシコオもほとんど権威を持っていなかったと思われます。詳細は後日


2023.9.22

兄磯城は、神八耳命という記事を第95話で書きました。ということはこの戦いは、王位継承の戦いであったかもしれません。

この戦いは、BC230年頃 大彦(綏靖)21歳 ウマシマジ17歳と推定しています。





※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

※これまでの記事はこちらです。



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tootake
Oct 15, 2023
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