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tootake

敢國神社と大彦

更新日:2月5日

第201話


敢國神社(あえくにじんじゃ)は、三重県伊賀市一之宮にあります。斉明天皇4年(658年)の創建になるとされていますが、やはり秦氏が関わっています。この神社の祭神は大彦です。大彦命は四道将軍として北陸地方を平定し、その子孫は伊賀国阿拝郡一帯に居住して阿閇氏(敢氏/阿閉氏)を称し、大彦命を祖神として祀ったと伝わっています。

また、それとは別に少彦名命を祀る秦氏一族があり、これら2柱をもって創建されています。ところで、このブログでは以前、孝元天皇の皇子に少彦男心命がおり、この皇子が少名彦(スクナ彦)ではないかと書いたことがあります。孝元天皇と家族たち

大彦と少彦、これはオオナムチ(大国主)と少名彦(スクナ彦)すなわち、オオナモチ(大名持ち=大穴持ち)と少名持ち(スクナ持ち)の名前の対比に合致します。


少名彦は神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、大国主とともに国造に尽力した人物です。大国氏は大彦です。大国主は、大彦 ~出雲は三島

つまり敢國神社は、孝元天皇(饒速日)の二人の皇子、大彦と少名彦を祀っていることになります。秦氏が、この二人の皇子(大彦と少彦名)を祀るのはなぜでしょうか。


秦氏が、大和(邪馬台国)に定住したと思われる時期に、大彦、少彦男心命の記録がなくなっています。おそらく二人とも死んでしまったのでしょう少名彦は常世の国(とこよのくに)行ったとされています。秦氏が、大和(邪馬台国)に定住したと思われる時期に疫病が大流行したとも書きました。秦氏は神社の創設者

大国主は根の国行ったとされていますが、根の国に行ったのはウマシマジです。ウマシマジも孝元天皇(饒速日)の子で、大彦とは腹違いの兄弟です。


私の推測では、秦氏が大和朝廷(邪馬台国)に来たと同時期に深刻な疫病が流行り、崇神朝は、三島(茨木)・御牧(枚方・高槻)の地を放棄せざるを得ない事態に落ちいったのです。その時にイガガシコオ御牧入彦(崇神天皇)は秦氏とともに、それまでの銅鐸・銅剣で日本を支配していた体制を改めて、日本各地に神社を設置したのだと思っています。


大彦、少彦男(大国主とスクナ彦)も疫病(コロナ?)に罹ったのかもしれません。

秦氏は機織りの技術者集団であったことに由来し、絹布を「うず高く積んだ」ことから、朝廷から「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられたとかんがえられています。ここで思い出されるのが卑弥呼です。卑弥呼は萬幡豊秋津師比売命!!

「多くの布帛で、多くの蜻蛉の羽のように薄い上質なものを作る織女」と考えられます。卑弥呼は大の衣装好きだったのです。秦氏を日本に招いた葛城襲津彦とは、卑弥呼(ウツシコメ)の弟のウツシコオ(内色許男命)だったのではないでしょうか。邪馬台国異聞2~馬と呉服

そして疫病の元となるウイルス(コロナ?)を持ち込んだのも海外から来た秦氏で会った可能性はあります。邪馬台国全史Ⅴ~コロナ発生 (hidemaru3375.com)


この神社で、祭神が大国主ではなく大彦となっているのは、まだ出雲神話が創作される前だったからと思われます。各地の神話や日本書紀、古事記が創作される以前にからこの神社はあったと思われます。出雲風土記は733年、日本書紀は720年、古事記は712年です。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


敢國神社


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