top of page

息長氏~ヤマトタケル3

tootake

更新日:2023年11月22日

第155話


息長氏は、近江(滋賀県)坂田郡を本拠としたとするのが一般的な見解です。

息長村(おきながむら)は、現在の米原市中心部の北東一帯にあたりです。

美濃への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がり、また、息長古墳群があり相当の力をもった豪族であったことが窺えます。天野川があることから、この辺りも邪馬台国の候補地になっています。天野川は、私が邪馬台国の一部とする枚方市・交野市にも流れています。


新撰姓氏録に息長丹生真人(おきなが・にう・まひと)という人物が記載されており、息長氏が丹生(にゅう=朱)に関わっていたと推測されます。息長とは「息を長く吹く」ということです。これは、火を強くすることで朱の精錬にはかかせません。


付近にある伊吹山の「吹」の字があることから、朱との関連が推測されます。ヤマトタケルは、伊吹山の神の攻撃に会い意識朦朧となったとの伝説があります。ここでもヤマトタケルは三重村と同じように朱(水銀)の毒に犯されてしまったようです。臼と杵~ヤマトタケル2


ヤマトタケルも息長一族です。

古事記に「息長」の初出は、息長水依姫です。父は天之御影神の六世孫・国忍富命、夫は日子坐王(第9代開化天皇の子)とされています。次は、開化天皇皇子の日子坐王の子である迦邇米雷王を父とする息長宿禰王(『』では気長宿禰王)であり、神功皇后とされています。ヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。

仲哀天皇の后が神功皇后(気長足姫尊:おきながたらしひめのみこと)です。


古代から滋賀県は渡来系の人々が住んでいた地域で、金属文化、石工文化があり、そうした意味で前号で触れた大分県と似た所があります。琵琶湖の東岸には邪馬台国異聞2~馬と呉服 でふれた阿自岐神社があります。


ちなみに邪馬台国=近江説で卑弥呼とされているのは、息長水頼比売(オキナガノミズヨリヒメ)です。古事記にのみ登場し、日本書紀には記載がありません近淡海(チカツアフミ)の御上祝が信奉する天之御影神(あめのみかげ)の娘で日子坐王(ひこいます)の妃の一人です。

           {参考文献}「邪馬台国は朱の国だった」蒲池明弘


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。



閲覧数:57回2件のコメント

最新記事

すべて表示

2 Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Nov 21, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

新羅本紀には234年に和解した後、暫らく倭国が登場しない。次に倭国が登場するのは278年(崇神30年)に「倭女王卑弥呼が和を乞うた」という記事である。この時卑弥呼は亡くなっているわけであるから、卑弥呼ではなく台与であろうと思われる。台与にしても、和を乞うということは、これ以前に倭国と新羅の関係は悪化していることを意味しており、新羅は倭国に対して何か画策していたと思われる。

 新羅は234年に倭国に対して降伏したが、服従したわけではなく、球磨国を利用して再び反抗を企てていたのではあるまいか。240年の朝貢時には狗奴国のことは記録されていないので、球磨国が再び反旗を翻したのは245年頃のことであろう。

 AD245年には開化天皇が亡くなり第10代崇神天皇が即位している。天皇の代替わりの時は反乱をおこすにはちょうど良いタイミングとなる。球磨国が再び反乱を起こしたのはAD245年であろう。

 AD245年の出来事

AD244年前後には次のようなことが起こっている。

 高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していたと思われる。  ところが、戦いの後、韓との約束した条件を違えて、辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓を魏の植民地にしたのである。このことが韓を激怒させ郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。この戦いで弓遵は戦死した。  東川王は魏軍が引き上げた後に245年平壌城を築城した。

 245年3月 日本海地方(辰韓)の人々が美女を献じたので後宮に入れた。  245年10月、新羅の北辺を犯す。  248年2月 新羅側から使者を送って来たのを受けて新羅と和を結んでいる。

Like

bottom of page