第154話
大分県の臼杵の市内には、いたるところに古い歴史と文化を物語る石造物があります。なかでも、稲田にある臼杵神社の境内には、県内でも珍しい石造物があります。その形が、甲冑に身を固めた武人(頭部はつくられていない)に似ているところから、石甲(せっこう)とも短甲型石人(たんこうがたせきじん)とも呼ばれ、この石人について、このあたり一帯では昔から語り伝えられていることがあります。それは、この石人を臼(うす)と杵(きね)に見立て、「臼杵」という地名はこの石人から起こったものであるというものです。しかしこの見立ては間違っています。
福岡県の糸島市にある糸島高校では、歴史部というクラブがあり、泊熊野遺跡から出土した甕棺が展示されています。甕棺の内部は朱の粉で真っ赤に塗られています。また、大根のような形をした石杵と石臼も展示されており、石杵の先端は赤みを帯びており、この石杵と石臼は、朱石をすりつぶすために使われたのではないかと思われています。泊熊野という地名は熊野=素戔嗚を連想させます。
水銀朱が使われた甕棺や古墳は糸島地域に数多くあります。神在遺跡の5号甕棺の内部、泊熊野遺跡の甕棺のにも水銀朱が溜まっていました。潤地頭給遺跡は玉作工房として知られていますが、水銀朱やベンガラの精製にもかかわっていたことが知られています。
卑弥呼が魏から贈られた品に名の中に「真珠(水銀朱)五十斤」が記録されています。倭国への重要な下賜品でもあったのです。
臼杵神社は大分県臼杵市稲田、通称「三重野(みよの)」の台地に鎮座しています。古くは「臼塚さま」と呼ばれていました。三重で思い出すのが大和猛(ヤマトタケル)です。ヤマトタケルは、日本各地に派遣され東国各地を平定した帰りに、三重村で「私の足は三重に折れひどく疲れてしまった、、、」と述べたそうです。
日本書紀、古事記、先代旧事本紀ともヤマトタケルの本名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとしています。本の名:小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)、亦の名:日本童男(やまとおぐな)
おうすとは臼のことだと思われヤマトタケルは水銀と関わる人物と推定できます。
金属にまつわる民俗学を研究した谷川健一氏は「青銅の神の足跡で」で三重県四日市水沢町に朱(自然鉱山)があったことを根拠として、ヤマトタケルが「私の足は三重に折れひどく疲れてしまった、、、」と言ったのは、水銀によって鉱山の採掘者が健康被害を受けたことを表しているのではないかとされています。
ヤマトタケルが東国で火に囲まれて窮地に陥りますが、これは草を焼き大地の表面を露出させるための作業だと言います。この時使用したのが草薙の剣です。
{参考文献}「邪馬台国は朱の国だった」蒲池明弘
関連項目:丹・朱を求めた天皇たち
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
糸島高校郷土博物館
舟形石棺(県指定文化財・二丈町鹿家長須隈古墳)
長須隈古墳から出土した石棺。棺身の内側には頭部に枕を彫りだし、一面に朱を塗られています。
艮御崎神社 (倉敷市)うしとら
祭神は、 須佐之男命、大国主命、建御名方命、保食神、宇賀魂命、少名彦命、八衢比古命、天之御中主命、大物主命[4]。数社を合祀しているため祭神の数が多い[3][注 1]。
天之御中主命は、『古事記』に最初に登場する神であるが、抽象神のため祀っている神社はめったにない[3]。
建御名方命は、官幣大社諏訪大社に祀られているが、諏訪神社を除いて祀っている例はあまりない[3]。大国主命の子ということになっていて、国譲りの談判のときに反対して、後に長野県の諏訪まで逃げたという[3]。
最後の大物主命は大国主命の別名である[3]。
た武将から逃げおおせて倒せなかった[1]。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した[1]。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた[1]。温羅に対して矢を1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした[1]。そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追った[1]。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕らえたところ温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上した。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになった[1]。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。この釜殿の精霊のことを「丑寅みさき」と呼ぶ[4]。
上述の吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら・うんら・おんら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。これによると、温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)・楽々森彦命(ささもりひこのみこと)・留玉臣命(とめたまおみのみこと)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する吉備津神社の鳴釜神事は上田秋成の『雨月物語』中の「吉備津の釜」においても記されている(詳細は「温羅」を参照)。
この伝承では、温羅は討伐される側の人物として記述される。しかし、吉備は「真金(まかね)吹く吉備」という言葉にも見えるように古くから鉄の産地として知られることから[10]、温羅は製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方や[11]、鉄文化を象徴する人物とする見方もある[12]。また、吉備津神社の本来の祭神を温羅と見る説もあり、その中でヤマト王権に吉備が服属する以前の同社には吉備の祖神、すなわち温羅が祀られていたとし、服属により祭神がヤマト王権系の吉備津彦命に入れ替わったという説もある[13]。
当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。 天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)」と称し、また「笹福(ささふく)」と号された。古くは砂鉄生産の守護神として厚く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称された。ご祭神の原初的な祭祀は古代まで遡ると考えられるが神社としてのご創建は仁和二年(西暦八八六年)との口伝がある。孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞(ばんきょ)する「牛鬼(ぎゅうき)」の名で恐れられる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。現今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。一方、細媛命はご巡行中の天皇の御跡を慕ってお尋ねになる途中、お産のお悩みがあり日野川のとある石の上にお憩いになる。時節は五月のなかばにして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉った。また増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧(みずおとかま)」と仰せになると水の音が忽ち止んだと伝わっている。よって日野川のこの流域(日野町上菅)は「音無川(おとなしがわ)」と呼ばれるようになった。そして其の地をお立ちになる時「むら雨の露のなさけの名残りをば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御歌を詠まれた。そして更に川上に上られて天皇とお逢いになり、宮内の里は良い宮処なりと御所を定めて多くの年月を過ごされたと伝わっている。即ち当社はご祭神の偉大なる御治績を追慕尊崇して鎮斎された古社でその宮処こそ「内裏」と尊称された現在の社地である。爾来、人々の崇敬は変わる事無く開運招福・願望成就の福神として遠近よりの参拝者が今日も絶えることは無い。明治元年「樂樂福社」と改め同五年縣社に列格され同七年「樂樂福神社」と改称、同四十年神饌幣帛料供進神社に指定された。また大正八年には近隣鎮座の村社六社・無格社一社を合祀した。昭和十五年には皇紀二千六百年記念として本殿を新たに造営し同年十一月に正遷宮祭を斎行した。戦後は神社本庁の包括神社となり例祭(春季大祭・五月一日)には本庁より献幣使が参向して幣帛料を奉る。
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<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
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