第131話~応神天皇は大彦
応神天皇は、架空の天皇だと思います。
応神天皇の両親とされる仲哀天皇と神功皇后が、現在の学界では実在した可能性の低い人物であるとされていることや、応神天皇紀、日本書記では、応神の宮や、応神天皇陵の所在が全く書かれていません。そして 応神天皇が主役の説話が一つも存在しません。百済から渡来した学者のこれも同様に阿直岐、王仁が主役の説話で、応神天皇は脇役に過ぎません。
他にも応神に関する説話はありますが、仲哀、神功と共に、仁徳以降の天皇と繋ぎ合わせる為に創作された人物であると思われます。
応神即位以後の「古事記」の物語は、菟道稚郎子の顕彰と、大鷦鷯(仁徳天皇)の即位、という二つの意図からなっていると考えられます。菟道稚郎子の母は和珥氏の出である矢河枝比売とされているところから、菟道稚郎子の顕彰は和珥氏の要請によるものであり、大鷦鷯の即位物語は、菟道稚郎子の顕彰の要請にともなって生じたものです。このことも、応神天皇の実在性を弱めています。
難波に本拠をもつ新しい王朝の初代天皇として仁徳があり、応神はさらにその上に重ねられた天皇であると推定され、応神を作為する意図としては、仁徳王朝を引き継いだ(応神五世孫とする)継体王朝が、仁徳王朝と同格の王家であることを誇示するために、その始祖として仁徳天皇の先代の応神を創出したのではないかとする説もあります。
直木孝次郎は応神天皇は、「継体天皇を権威づける為」と、「仁徳天皇の出現を説明する為」という二つの目的をもって、仁徳の前に加上された伝説上の天皇と理解できるとしています。
一方で、八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、承久記には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされています。誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬しています。
応神天皇は、大彦ではないかと私は思っています。根拠としては、大彦を祭る神社がほとんどないことです。あることはあるのですが、応神天皇を祭る神社に比べると皆無と言っても良いくらいです。
大彦は、このプログでも述べて来たように、数々の功績があります。なぜ大彦を祭る神社がないのでしょう。神社というものを創り出したのはイカガシコオです。大彦とイカガシコオは同世代の人物です。ライバルでもあったのでしょう。前に記紀の元となる資料(Q資料)を書いたのはイカガシコオだと書きました。大彦を神として祭ることには抵抗があったのでしょう。ただし大彦は、大国主、大己貴命(オオナムチ=大穴持命)として祀られています。これは大歳が、饒速日として祀られているのは同じです。
神功皇后が卑弥呼(ウツシコメ)、大彦が応神天皇です。大彦が作ったと思われる縫合船の船団が卑弥呼の命令で新羅に攻め込んだのだのではないでしょうか。
関連項目:大彦
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余談ですが、能の「難波(古名:難波梅)」では、王仁は「おうにん」と読まれているそうです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
イカガシコオ 自分の直接 知らないことを神話に
王仁に文字、作文を習った。
玉櫛姫=真下姫(味舌) 神武(饒速日)に嫁ぐ、大日彦=大山祇は饒速日の義父
クシナダヒメ=玉櫛姫=市杵島姫命 スサノオ(孝元天皇)の妻
串になった姫 大山祇命の娘(守口市)
五十鈴=此花昨夜姫 大山祇命の娘
蝦夷 ~エビス(恵比寿) (hidemaru3375.com)
記紀の書き手は資料が少ないので、一人の事績気を何人かの話として書き換えた。
このエピソードは、こっちの天皇の話にしよう、この天皇はこの話が良いとか、、、
『古事記』『日本書紀』の紀年との対応関係
『古事記』に紀年の記述は無いが、分注として一部天皇の崩年干支(没年干支)を記す。この崩年干支を手がかりに歴代天皇を倭の五王を比定する説がある。『古事記』は天皇の崩年(没年、崩御の年)を次のように記す。
『古事記』の天皇崩年干支
西暦 干支 代 名前
394年 甲午 15代 応神
427年 丁卯 16代 仁徳
432年 壬申 17代 履中
437年 丁丑 18代 反正
454年 甲午 19代 允恭
489年 己巳 21代 雄略
527年 丁未 26代 継体
『古事記』の天皇崩年干支がある程度正しく、また五王がすべて別々の王(大王)であったとすれば、「讃」=オホサザキ=大鷦鷯天皇(仁徳)、「珍」=ミヅハワケ=瑞歯別天皇(反正)、「済」=オアサヅマワクゴノスクネ=雄朝津間稚子宿祢天皇(允恭)、「興」=アナホ=穴穂天皇(安康)、「武」=オホハツセノワカタケル=大泊瀬幼武天皇(雄略)となる(数年程度の誤差は存在する)。1箇所、『宋書』の倭王系譜と明らかに矛盾する箇所がある。すなわち「珍」を「讃」の弟とする点である。
「讃死弟珍立遣使貢献」(讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。)
— 『宋書』倭国伝
『古事記』が丁丑年=437年に崩御したとする反正天皇は、『古事記』『日本書紀』によればイザホワケ=去来穂別天皇(履中)からの兄弟継承であり、仁徳天皇の子である。履中天皇は430年以後に即位し、宋に遣使することなく438年以前に崩御したと考えられる。しかし「讃」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇に比定すると、『宋書』倭国伝における「珍」を「讃」の弟とする記述と矛盾する。このように一定の限界はあるものの、『古事記』の天皇崩年干支により倭の五王が推測できる[注 16][49]。一方、『日本書紀』の記述からは天皇崩年干支は次のように計算され、「讃」「珍」「済」がいずれも允恭天皇、「興」「武」がいずれも雄略天皇の治世となって大きく矛盾する。
『日本書紀』の天皇崩年干支
西暦 干支 代 名前 説明
405年 乙巳 17代 履中 仁徳天皇の第一皇子
410年 庚戌 18代 反正 仁徳天皇の第三皇子
453年 癸巳 19代 允恭 仁徳天皇の第四皇子
456年 丙申 20代 安康 允恭天皇の第二皇子
479年 己未 21代 雄略 允恭天皇の第五皇子
このような矛盾はあるが、『日本書紀』の応神天皇紀と仁徳天皇紀に「呉」との外交記事があり、履中天皇紀と反正天皇紀には無いことを重視すれば「讃」は応神天皇、「珍」は仁徳天皇となる。応神天皇の外交記事は治世37年にあり、120年(干支2巡)繰り下げると西暦426年となり、「讃」の最後の遣使と思われる425年に近い。仁徳天皇の記事は治世58年にあり、60年(干支1巡)繰り下げると430年となり、『宋書』本紀にある倭国王(王名の記述なし)の遣使年と一致する。この説も応神天皇と仁徳天皇が兄弟となる点で『日本書紀』や『古事記』と矛盾するが、「彌(珍)」と「済」が親子という『梁書』の記事とは一致する[注 17][49]。
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