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邪馬台国異聞3~縫合船

更新日:4月9日

第128話


福井県坂井郡春江町出土の銅鐸には、細長い船体の前後が高くそり上がったゴンドラ形の船でが描かれています。十人を越す漕ぎ手の姿が船の上に見えます。このゴンドラ船は、丸木舟とは、違い釘を用いて板を継ぎ足つことによって造られたものだ思われています。


丸木舟は、火で焼いて丸木をえぐって造ったと思われ、一本の大きな材木から造る丸木舟では、その大きさは用材の大小に左右されます。しかし鉄製の釘があれば、 板を接合してより大きな船を造ることができます。


福井県春江町は、日本海の三国の近辺です。日本海と九頭竜川を結ぶ中間点が三国で、上流の鯖江の舟津神社には大彦が来たという伝承があります。釘を使用した”縫合船”が弥生後期には出現していており、この地域が縫合船の発祥の地だと思われます。


大彦の息子の崇神天皇は、「船は天下の要用なり。今、海の辺の民、船無きに由りて甚に歩運に苦ぶ。其れ諸国に令して、船舶を造らしめよ」と書かれています。日本書紀「崇神天皇十七年の条」


イタテ神(五十猛)を祀る紀ノ國(木の国)の紀臣一族は、五世紀を通じて対半島の水軍とし て活躍しましたが、おおむねこの時期の大型船は、この複材構造船だったと考えられています。


天保9年(1838年)に愛知県海東郡諸古村(佐織町)で発見された楠木製の複材構造船は、長さ十三間(約24メートル)で、明治11年(1878年)、大阪市浪速区船出町(浪速区敷津東)で発見されたものは、長さ15メートルでした。曰本書紀「応神天皇の条」″枯野”という船は、長さ十丈(約30メートル)だったといいます。


日本書紀では、五十猛は素戔嗚(スサノオ)の子でスサノオが五十猛をつれて新羅に天下ったと書かれています。有名なヤマタノオロチの話の後に五十猛が日本に木を植えて青山にしたと書かれています。


初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。


古代の倭人には朝鮮半島の山には木が少ない、と映っていたようです。早くから製鉄業の盛行した半島では、ただでさえ少ない木材資源をいっそう早く涸渇させていったのでしょう。


豊かな木材による造船の発達、それが四世紀から五世紀にかけての倭国の強味で、倭国の水軍は船の大きさ、強度からして非常に有利な立場に立てることになります。

新羅王が、海を越えて倭兵の根拠地をたたこう、と言ったとき、側近が「吾人不習水戦(水軍は不利だ)といったそうです。

”枯野”という大きな船が、使い物にならなくなったとき応神天皇は

「是朽ちて用いるに耐えず。何でか其の舟の名を絶たずして、後葉(のちのよ)に伝ふることを得む」と言って大変嘆いたそうです。

                  {参考文献}「天孫降臨の道」上垣内憲一


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<後記>

枯野という船は高速船であったようです。

和名抄によると、「牧むまき」の周縁地で、その野に一面に草が枯れ広がっていると、それはすべて干し草、馬の飼葉に利用できる。ふつう、干し草は刈り取った草を乾燥させて利用する。そして飼葉桶に入れて馬に与える。野が一面に枯れている情景は、飼葉桶に入れるような干し草がたくさんできあがっている状態ということになる。それほど食べれば馬はよく育ち、「疾行如レ馳」と呼ぶに値して速く走ることであろう。古代の高速陸上交通手段はとりもなおさず馬であった。そして、飼葉桶は「槽ふね」である。フネとは、船の形をしたもののことである。「牧むまき」は枚方市牧野です。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。





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迂老角干

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tootake
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