第238話
出雲醜大臣命(イツモシコ)の父は彦湯支命(ヒコユキ)です。
以前にも述べたようにヒコユキはウツシコオ(内色許男命=大綜麻杵)です。この出雲醜大臣命はイカガシコオ(伊香色雄命)のまたの名または尊称とされるのは「邪馬台国と神武天皇」の著者である牧尾一彦氏です。p367
イカガシコオは父親であるウツシコオの跡をついで開化天皇、崇神天皇の宰相を務めていたと思います。姉もしくは妹は崇神天皇妃であるイカガシコメ(伊香色謎命)です。
以前から私はなぜイカガシコオは出雲醜大臣命と呼ばれていたのか不思議に思っていました。しかしウツシコオが建御雷(タケミカヅチ=タケハニヤス)だとすれば謎は解けます。出雲とは反逆者の意味です。武埴安彦命は建甕槌!! 内色許男命は武埴安彦命!
つまり親であるウツシコオがが謀反を起こしたため、自分も罪を問われると思いイカガシコオは御牧国(=邪馬台国:枚方市伊加賀)から陶邑(大阪府南部の丘陵地帯:堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市)に逃走したのです。
その後、御牧国(邪馬台国)で疫病が大流行し、それが大物主=長脛彦=ウツシコオの祟りであるとされ、倭迹迹日百襲媛命が神懸りして受けた託宣により茅渟県の陶邑において大和三輪山の神、大物主を祭るため、大田田根子を探し出すことになりました。
大田田根子はイカガシコオが隠れていた時の名前なのでしょう。太田のオウは多氏のことでしょう。登美氏(富氏)は多氏です。長脛彦は登美彦です。摂津富田~登美の里
崇神天皇は優秀であったイカガシコオをとがめることなくそのまま宰相としました。イカガシコオ武官ではなく文官でした。中国の漢籍なども読み下し大和朝廷のなどの記録も残した人物だと思います。古事記・日本書紀とQ資料
父親である内色許男命=大綜麻杵こそが、自ら魏に赴いたとされる卑弥呼の補佐官(弟)とされる難升米であるとされるのは、「ヒミコから崇神天皇へ」の著者である由学之進氏です。内色許男命=大綜麻杵は魏の言葉を自在に話し、読み書きも堪能であったはずです。
その子であるイカガシコオも当然そういう才能は有ったでしょう。
関連項目:伊香色雄命(イカガシコオ)~枚方市伊加賀
※これまでの記事はこちらです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。
八阪神社 (高槻市)(大阪府高槻市熊野町)
少数意見として、倭国や邪馬台国に関する記述自体が中華思想による捏造であって、根拠が無いとする見方もある。そもそも日本で見つかった金印が捏造による捏造であれば、いくつかある史書のそれぞれの信憑性を保証するものは何もないのである。この見解では、そもそも邪馬台国の存在が捏造なので、存在場所を特定しようとすることは無意味となる。
正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
正始8年(247年)、新太守の王頎が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
239年 40歳 饒速日(65歳) 崩御 卑弥呼42歳 大彦42歳
金印もらう
240年 魏の使者が来る。ウマシマデ29歳
241年 大彦開化天皇として即位 242年 タケハニヤスの乱
42歳 クガミミ、タケハニヤスの乱 大彦48歳 大彦を暗殺しようと思う。
応神天皇元年
243年 大彦暗殺計画
244年 イニエ生まれる イカガシコオ20歳 オホニイカワ生まれる。
245年 大彦暗殺計画2 大彦衰弱
246年 46歳 国譲り~孫のミマキイリヒコを崇神天皇 大彦33歳:衰弱 事代主4歳
ウマシマジ31歳、タケヌナカワはタケミナカタ イニエ13歳
247年(正始8年)、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に訴えるために魏に赴く。
・載斯烏越(ウツシコオ)、長脛彦の最後 卑弥呼死去49歳
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫