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空白の150年~邪馬台国

更新日:4月18日

第2話


高槻から茨木にかけての三島の地は、235年の銅鏡が出土した安満遺跡や、銅鐸の一大生産地であった東奈良遺跡など作れるほど大きな勢力があったのは確かです。

ところで阿武山(あぶやま)の麓に、阿為神社の周辺、安威古墳群*があり、ここには、古墳時代前期の前方後円墳と、古墳時代前期と後期の円墳が20ほど確認されています。なぜか、二つの時代のあいだの古墳時代中期のものは存在しないのです。三島野の古墳群もそうです、弁天山古墳が作られてから空白があり継体天皇陵が作られるまでおおよそ150年間の空白があります。


*大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳。国の史跡に指定されている。昭和初期に地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘され、被葬者を藤原鎌足(中臣鎌足)に比定する説が知られる。


なぜでしょうか。ヒントは崇神記に書かれている疫病の流行と民の流出です。疫病はすさまじく何年も続き民の半分が亡くなった伝えられています。

「近習者を集めて、生きたまま陵のまわりに埋め立てた。何日も死なず、昼も夜も泣き叫んだ。ついに死んで腐った死体は、犬やカラスがついばんだ」

との記事が日本書紀にありこれは殉死者の記事と思われていますが、妄想を働かすと感染防止の処置だったのかも、、、、なぜなら日本では殉死者の痕跡がある古墳は一つもないからです。

卑弥呼も頼りのウツシコオ(オモカネ)死んでしまいました。崇神は、イカガシコオに命じ大田田根子なる人物を探させ、奈良盆地の三輪山の麓に大神神社を作りらせたとあります。そして奈良盆地へと移住していったのです。


なお銅鐸が三輪山の麓で廃棄されているのが発見されていますが、このことも疫病と民の流失との関連が十分に考えられます。

 ミマキ国は捨て去れら、いつしかミマキ国があったことさえ現在に至るまで忘れさえ去られます。摂津の国という地名は大宝4年あたりに文献に登場します。 このことはかなり奇妙なことです。日本中の国名はほぼ定まっているのに北摂だけは名前の無い空白地帯ということです。大阪地域は、津国と呼ばれていたようなのですが 直木氏は北摂という地名に違和感があり、摂津になぜ北摂が加わったかと疑問を持たれています。(摂津の誕生 直木考次郎古代を語る6) 私が生まれた三島郡三島町は今は摂津市になっています。摂津市ができたのは私が小学校6年で樟葉に引っ越ししてからです。誰もが忘れてしまいたい悲惨なことが北摂で起きたのではないかと想像できます。今では高級住宅地されている楠葉を糞葉とののしったのです。  

古墳時代中期に継体天皇が宮を構えるまで楠葉(ミマキ)は呪われた(祟られた)地になったのです。

前にも述べたように三島は藤原氏との関連が深いところです。だからミマキは消されても、ミシマは地名として残ったのでしょう。枚方という地名もいったん消え後に復活したことが分かる資料(和名類聚抄)もあります。


崇神朝の前期に起こった国の存亡にかかわるような大規模の疫病の原因とは何でしょう。

他の民族との接触によるウイルスによる感染症だと多くの研究者が指摘しています。大陸から大挙してやってき来た騎馬民族だとの説もあります。

筑紫や吉備、狗国(木の国)に住んでいる人も日本人ですし、蝦夷とも仲良く長く付き合っていたようです。地方との交流も盛んで高槻には筑紫津という船着き場と思われる神社も残っています。筑紫を出て、瀬戸内海を渡って浪速から河内湖に入り、九州の人たちがこの筑紫津にやってきた様子が想像できます。

コロナ感染で知ったようにパンデミックは、急激な異民族との接触であって、じわじわとした接触ではありません。この時代大量の移民族がやってきたという記録はないわけですから、少数の海外からの訪問者であったはずです。


卑弥呼もウツシコオ(オオヘソギ、難升米)もこの頃に死んでいます。魏志は死ななかったようですが。そうです一番可能性の高いのは他民族といえば魏志ではないですか?


実際に魏に行った難升米もウイルスを持ち帰った可能性もあります。

(時代的には魏ではなく晋の時代の出来事かもしれませんが)



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



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