第219話
今回は、私が邪馬台国とする北摂の地名について考えて見ました。
高槻の地名の由来としては、大和で長髄彦一族に苦しめられた神武は道臣命(大伴氏遠祖)と可美真手命(ウマシマジ:饒速日の長男)を東征軍の長に任じ、征伐に成功したことから天皇は三島の土地を与えた。その軍隊の旗印が月”つき”をかたどっていたので、褒美に貰った土地を「高月」と呼ぶようになったという説があります。他にも、安満庄にあった天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)が高月読杜(たかのつきよみのやしろ)とも呼ばれ、そこからその一帯は「高月」と呼ばれたという説もあります。槻(欅の古称)の大木があったため「月」を「槻」に変えたというのは本当でしょう。大伴氏も高槻にいた! (hidemaru3375.com)
枚方の地名の由来は、一説に神武天皇東征説話に出てくる「白肩津(シロカタツ)」と言う地名が転化して「枚方」となったものだというのがありますが、説としては疑問があります。今日一般論として、枚方の「枚」は「平」で平らなことを意味し、「方」は「地方」と言う意味か、あるいは「潟」と言う意味があるのではないかと言われています。枚方とは「淀川が形成した平らな潟の上に開けたところ」と言うのが語源だと思われます。アイヌ語に語源を求めると、「ひらかた」は「崖の上」を意味し、崖を示す地形を探すと枚方の「万年寺山」の崖は30~40mの落差があり、断崖の上と言えます。私の枚方の家も崖の上です。アイヌ語でpiraは崖、kataは上
茨木はの木は城という意味です。茨のような堅固な城が茨城です。茨城県と茨城と同じです。茨城県は大阪府の茨木市が由来だとされているのは、古代史研究家の関裕二氏です。
茨木市の隣の吹田(すいた)の吹は、銅や鉄の精錬に使う鞴(ふいご)から来ていると思われます。
枚方市の隣は寝屋川市です。寝屋川という川が流れていますが、寝屋とは何でしょう。寝屋子制度(ねやこせいど)は、三重県鳥羽市の答志島答志町で古くからおこなわれている風習です。一定年齢に達した男子を世話役の大人が預かって面倒を見る制度で中学校を卒業した男子は寝屋子という共同生活の場で生活を送ります。寝泊りする場を寝屋といいます。日常生活全てを寝屋で過ごすのではなく、夕食などを家庭で済ませた後に漁業を学んだり、村の祭り(神祭など)のときに大切な役目を任されたりするために、毎日集まっていたそうです。
古事記には、7人の女性が狭井川の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されてます。7人もの高貴な女性が伴も連れずにあるいていたのでしょうか。私は、古代では寝屋制度は男女ともに存在し女性は女性だけで集まって様々な勉強をしていたのではないでしょうか。寝屋川市には、高貴な女性が集まる学校(寝屋)があったのだと夢想しています。
関連項目:豊受気媛神は三炊屋媛
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
神武天皇と五十鈴姫の出会い
001397935.pdf (moj.go.jp)
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫