第37話
神武東征でおなじみの大伴氏、久米氏は神武と一緒に九州からやって来たのだとばかり思っていました。しかし、大伴氏の古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったらしいのです。摂津国住吉郡を本拠地としていたようで、大伴金村の「住吉の宅」があったほか、『万葉集』でも「大伴の御津の浜」「大伴の高師の浜」と詠われています。住吉はヤマト王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「高師」は現在の大阪府高石市一帯のことです。
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたとされています。来目部(クメ:久米)や靫負部(ゆげいべ)などの軍事的部民を率いていたこと想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられています。
親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていました。
高槻の地名の由来として、大和で長髄彦一族に苦しめられた神武は道臣命(大伴氏遠祖)と可美真手命(饒速日の長男)を東征軍の長に任じ、征伐に成功したことから天皇は三島の土地を与えた。その軍隊の旗印が月”つき”をかたどっていたので、褒美に貰った土地を「高月」と呼ぶようになったという説があります。東征軍に命令したのは大彦かウツシコオ、あるいはこの頃にウツシコオの跡目を次いで物部のトップとなった我らがイカガシコオだと思われます。
大伴氏が親衛隊であったならば、高槻はミ・マキ国ですから護衛のために常駐していたのは当然です。むろん、高槻に領地を貰ったのではなく、ミマキ国のあちこちに駐屯していたのでしょう。大和朝廷(邪馬台国)がミマキ国から奈良盆地に移動に伴って大伴氏も高槻から去ったと思われます。伴林氏神社(大阪府藤井寺市林)の社伝では、東征の論幸行賞として築坂邑(”つき”さかのむら、現在の橿原市鳥屋町辺り)に宅地を下賜され、 とくに寵愛されたといいます。”つき”はやはり、大伴氏のシンボルのようです。
高槻の地名の由来としては、他にも、安満庄にあった天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)が高月読杜(たかのつきよみのやしろ)とも呼ばれ、そこからその一帯は「高月」と呼ばれたという説もあります。槻(欅の古称)の大木があったため「月」を「槻」に変えたというのは本当でしょう。
中学・高校時代を高槻で過ごした私としては、大伴氏も高槻にいたとすれば嬉しいです。
しかし饒速日の長男のウマシマジが長脛彦の討伐軍に加わっていたとは、この点は追及する必要があります。
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