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地球幾何学4~男山八幡

更新日:2023年12月11日

第173回


世界最大級の古墳:仁徳天皇陵(大仙陵古墳)そしてすぐその下にある履中天皇陵は全く同じ向きをしています。地図では北東に傾いているように見えます。試しにこの傾きを保ったまま北東に線を引くと、線は枚方市の牧野車塚古墳にぴったりと行きつきます。その先の線上にあるのが、片埜神社でした。そしてその先の線上にあるのが、男山八幡(石清水八幡宮)です。地球幾何学~禁野車塚古墳


宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つです。

祭神は、誉田別命 (ほんだわけのみこと=応神天皇)、比咩大神 (ひめおおかみ)、神功皇后で、筥崎宮(福岡市東区)では、比売神が玉依姫になっています。

宗像三女神を祭っているのは、男山八幡だけです。


男山と言えば、ウツシコオヒコユキ)の拠点地の内里のあるところです。試しに今話題のチャットGTP(AI)でウツシコオと内里について尋ねてみました。


「ウツシコオは、魏志倭人伝に登場する難升米であるとされています。彼は卑弥呼の補佐官であったとされており、椿井大塚山古墳(京都府木津川市山城町椿井)に埋葬されているとされています。ただし、塩土老翁(シオツチオジ)もウツシコオであるという説もあります。椿井大塚山古墳は、大和朝廷の重臣の墓であるとされており、ウツシコオの墓だとする説もあるようです。

一方、内里は、京都府八幡市にある地名で、ウツシコオの出身地とされています。内里には、内里極楽橋や内里奉行通りなどがあります。ただし、内里がウツシコオの出身地であるという説には異論もあります。

以上の情報から、ウツシコオと京都府内里の関係は、ウツシコオが内里出身であるという説があること以外は、明確にはわかっていません。」


なるほどと感心していましたが、出展をみると上記の記事は、すべて私のブログの記事からの引用でした。



※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


男山八幡(石清水八幡宮)


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tootake
2023年12月12日
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
2023年12月12日
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交野天神社  〒573-1104 大阪府枚方市楠葉丘2丁目19−1


鏡伝池


大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)[5]」と言い、群臣は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣はかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという[6]。その後も、男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)を皇后とした。継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている[7]。 その後19年間は大倭入りせず、511年筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している

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