top of page
  • tootake

魏志倭人伝を読む

更新日:4月25日

第11話


魏の使者は本当にヤマトに来たのでしょうか?


倭国では、男子は、大人も子供も、みんな顔や体に入れ墨しているとか、男子は頭に布を巻いて、服は、横幅の広い布を身体に巻き付けているだけで、縫ったりはせず。婦人の場合は、単衣の真ん中に穴を開けて、そこに頭を入れて、身体にまとっている。などの記述が魏志倭人伝にはあります。

ほかの記述も近畿ではあり得ない風俗、風習です。御牧(ミマキ)や御島(ミシマ)の人々の文化水準はもっと高かった筈です。少なくとも崇神王朝の人は優雅な姿形だったと思いたいです。時代はやや下りますが、それをうかがい知れる出土品もあります。

神武天皇の家臣の大久米が五十鈴姫を見初めて会いに来た時、五十鈴姫は、大久米命の顔に刺青があるのを見て驚き、鳥のようだと歌を詠んでいます。


阿米都都(あめつつ) 知杼理麻斯登登(ちどりましとと) 那杼佐祁流斗米(などさけるとめ)これに対し大久米命は次のように返す。

袁登賣爾をとめに 多陀爾阿波牟登ただにあはむと 和加佐祁流斗米わがさけるとめ

媛女に 直に逢わんと 我が黥ける利目

(大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。


これにより五十鈴姫がいたミシマでは、誰も顔に刺青などしていなかったことが分かります。

偉人伝は最初に上陸した九州(つくし)の風習を書いただけと思われます。貫頭衣などもミシマではもうすでにすたれていて平安朝とそれほど違はなかったと思います。


魏志はミマキ、ミシマに来ていなかったのではないかと私が疑う理由です。

しかし私の妄想は加速しました。ヤマトは自国の魏とあまり変わらなかったから、面白くなくて書かなかったのでなかったと。


九州は筑紫(つくし)と呼ばれていたのですが、これはヤマトから見て遥か彼方で、行き尽くした地、つまり「尽くし」→ツクシになったのです。


それにしても私にはどうしても神武天皇を創作した意図が分かりません。

崇神天皇をどうしても初代にしたくなかったのでしょうか?

そしてなぜ筑紫(九州)から東征しなくてはならなかったのでしょうか?

崇神天皇をどうしても初代にしたくなかったのでしょうか?


崇神朝の疫病による大災害、農民の流出、それにともなう大幅な社会改革があった為でしょうか?銅鐸、銅剣の廃棄、神道・神社の創設などによる大幅な社会変革は旧体制の反発が当然あった筈です。しかし記紀(古事記、日本書紀)が書かれたのは、崇神朝よりおよそ500年後の720年ころ、仏教伝来は552年、そんなにも長く御牧入彦は祟られていたのでしょうか?


これからこれらの謎を解いていきたいとおもいます。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



閲覧数:60回1件のコメント

最新記事

すべて表示

1 Comment

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
bottom of page