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阿加流比売神は下照姫

更新日:1月3日

第183話


前号の続きです。瀧川政次郎は「比売許曾の神について」の中で比売許曾の社を西から順に調べて行きますと、筑前の伊都郡の高祖神社、豊前田川の香春神社、豊後国前の比売許曾神社といくつもありこれらの比売許曾を繋いでいった線が、帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、近畿の各地に移って行った行程を表すのではないかと書かれておられます。


上垣内憲一先生の「天孫降臨の道」を一部抜粋させていただくと、「新羅本紀の記述を読むと、三世紀末に「倭兵」の来襲があり、捕虜を劫掠して去ったり、おそらく東海岸のどこかと思われる沙道城を攻め落としたりといった事件が起こっていることがわかる。三世紀末は、『魏志』「倭人伝 」の記録でも、卑弥呼の魏および楽浪への遣使(二三八~二四七年)の後に、卑弥呼が死に、十三歳の女王壱与が立った、というところで記事は終わっており、その後、邪馬台国は歴史の暗い波の中に消失してしまう。じつはこの時期、楽浪とその南の帯方郡では、倭国のことなどかまっていられないほどの大争乱が起きていたのだ。

~~中略~~

このように、半島で二郡に対する韓族の攻撃があれば、当然、倭国との連絡は杜絶し、邪馬台囲の支配者がその権威の裏付けとしていた魏国のバック・アップが消えるわけで、男王を立てて国中が服さず、十三歳の少女が女王になるようなきわめて不安定、妥協的な政権が崩壊の道をたどつたであろうこと、想像に鞋くない。激烈な戦闘が行われ、韓族が敗北したのだろう。またこれは、韓族の民族国家形成への胎動を感じさせる出来事で、当然、韓族内部の支配体制の再編成をともなっていたと考えられる。三世紀後半の半島南部は、激動期にあったのだ。そうした闘争に敗れた者のうち幾人かは倭国へと渡来したはずで、その流れの中にイツツヒコもあった、と考えたい。倭国は内乱状態にあり、北九州、山口、山陰の海岸部に半島から渡ってきた人びとが、かなり征服者的、暴力的なやり方で拠点を獲得した、その模様を語ったのがイタケル神の神話であり、そうした各勢力を統合したのがイツツヒコの王国だったのだ。」


福岡県糸島郡誌には、「日槍はイツツヒコ(五十迹:イトテ)の祖となり、、」と書いてあります。


ところで、「大阪市東成区の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神(あかるひめのかみ)であるといいます。」と前回書きましたが、ここの比売碁曾神社の主祭紳は下照比売命なのです。下照姫は、高照姫と同一人物であるとされ大国主の子でアジスキタカヒコネの妹です。


ここで思い出されるのは、前回で書いた伝説です。「新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。」

つまり、下照とは、下半身に日の光が当たったことを指しているのしょう。美しい娘は、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきたとされています。



※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)大阪市東成区


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