第157話
前号でふれた大吉備津日子と若建吉備津日子命の母親は、それぞれ絙某姉(はえいろね)と絙某弟(はえいろど)とされています。古事記によればこの二人の孝霊天皇妃は、安寧天皇の曾孫とされています。「邪馬台国と神武天皇」の中で著者の牧尾一彦氏はこの古事記の記述は虚構であることを述べられています。p459
孝霊天皇妃は十市県主祖大目の娘、細比売(細媛命:くわしひめのみこと/ほそひめのみこと)日本書紀。そして別伝では十市県主等の祖:真舌媛と書かれています。
大目は古事記では十市縣主の祖としており、日本書紀では大目は磯城縣主としています。
このプログではすでに「大目」は「大日」であることを述べています。菊理媛神~大目は大日(守口市)
そして細媛命こと真舌媛の「ました」は、大阪府摂津市の「味舌(ました)」に由来すると思われ、真舌媛の父とされる大目こと大日(大阪府守口市)は味舌から淀川を数キロ下ったところにあり、地理的にも無理がありません。味舌は三島郡に属した町です。事代主神後裔氏族(カモ族:三島の溝杭)に関わる場所で、味舌の北東4.3kmに、溝咋神社が所在することから、一帯が、事代主神を属性とする水運の要衝であったことがわかります。
十市御縣坐神社(とおちのみあがたにますじんじゃ)は、奈良県橿原市にある神社で主祭神は豊受大神、配祀は市杵島姫命で社伝では「孝霊天皇記に見える十市県主の祖の大目を祭神とすると書かれており、私が市杵島姫神=真舌姫だとする根拠です。
第2代綏靖天皇から第6代考安天皇までが虚構五代とされその系図は、巧みに創作されており、真実の歴史を隠そうとしている節があります。
素戔嗚は大山祇命の娘の神大市比売(カムオオ”イチ”ヒメ)を娶ったと古事記に書いてあります。神大市比売が市杵島姫神であることが推定でき、「和州五郡神社神名帳大略注解所の十市縣主系譜に、十市縣主の祖は大日彦の娘であると書いてあることから、大目は大日であることが証明できるのです。
こうして素戔嗚は孝霊天皇、市杵島姫神は真舌姫(細媛命)、大日彦は大山祇命であることが判明します。されに倭国香媛(やまとくにかひめ)は、孝霊天皇の妃で、倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命の母親とされ、別名は絙某姉(はえいろね)で古事記では安寧天皇の曾孫で淡路島出身の蠅伊呂泥(はえいろね)またの名、意富夜麻登久邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)と記されています。ということは倭国香媛も真舌姫です。
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2023.11.24
倭迹迹日百襲姫命(やまととももそ姫)は、孝霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれ姫:古事記)との間に生まれたとされています。日本書紀では意富夜麻登玖邇阿礼比売命は倭国香媛(やまとくにかひめ:別名は絙某姉:はえいろね)とされ、この女性は、十市県主祖大目の娘、細比売(真舌媛)とは別人のようです。
古事記では、国香媛の父親は、第3代安寧天皇(シキツヒコタマデミ)の子の和知都美命(わちつみ)であるとしています。倭迹迹日百襲姫命は淡路島出身
2024.5.16追記
十市県主について、815年に編まれた新撰姓氏録は、十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載しています。十市県主が、大目の後に磯城県主から別れたのであれば、大目が、磯城県主であり、十市県主の祖であっても矛盾はない。中原系図によれば磯城津彦の後を十市県主としています。とうことで和知都美命(わちつみ)は、十市県主祖大目です。和知津美命はワタツミ!!
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樂樂福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)の由緒略記によりますと細媛命皇后(くわしひめのみことこうごう)通称 ほそひめ・ほそ媛さん。孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。と書かれています。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
摂津市味舌小学校
古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。
河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ) と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。
「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶られたと思われる。
磯城県主の娘姉の蝿伊呂泥(ハエイロネ)…別名、意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ)は孝霊天皇の妃となり、有名な倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)や吉備津彦などを生んでいます。
卑弥呼関連年表(古代史の復元) (mb1527.thick.jp)
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている[1]。
同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。
『日本書紀』崇神天皇10年9月27日条によれば、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こしたので、彦国葺は大彦命(阿倍氏祖、四道将軍の1人)と共に山背に派遣された。その際、忌瓮(いわいべ)を和珥武鐰坂(わにのたけすきのさか:現・奈良県天理市和爾町付近)の上に据え、精兵を率いて那羅山(ならやま)に登った。さらに山を去って輪韓河(わからがわ:京都府木津川市木津町付近の木津川)に進み、埴安彦と川を挟んで対陣した。彦国葺は、埴安彦が無道にして王室を傾ける者であると言い、埴安彦を討ち軍衆も追討したという[1]。
その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという[1]。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している。
上記の物語は、景行天皇の時代に「倭建命」が出雲建を殺した策略とほぼ同じで、伝承の混同が見られる。なお、『書紀』の「日本武尊」は熊襲征伐の帰路に吉備と難波の神を退治しているが、出雲には立ち寄ってはいない。
『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)
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:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
:タケハニヤスの乱最終章