top of page
  • tootake

孝霊天皇の謎~出雲は針間

更新日:2023年11月23日

第156話


出雲神話に出てくる出雲は、元々は出雲とは呼ばれていなかった。というのがこのプログの主題にようになっています。出雲は元々京都市の地名:山代国(京都府)愛宕郡の出雲でしたが、その地を拠点にしていたタケハニヤスが乱を起こしたために、反乱者(敵対者)のことを出雲と呼ぶようになったのです。では現在の出雲と呼ばれていた地域は何と呼ばれていたのでしょう。タケハニヤスの乱最終章


大吉備津日子と若建吉備津日子命とは、二柱相副(あいそ)ひて、針間(はりま)ノ氷河(ひかわ)之前(さき)に、、、、と古事記にあります。


私は、孝霊天皇は素戔嗚だと思っています。大吉備津日子は素戔嗚の長男の五十猛で、若建吉備津日子命は、大歳すなわち饒速日ではないでしょうか。古事記では五十猛神(イタケル)は素戔嗚の第2子、大歳(饒速日)は第5子となっています。孝霊天皇の子は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)で亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと=桃太郎)です。


氷河とは鳥取県日野郡を流れる日野川だと思われます(謎の四世紀:上垣内p228)。

氷川(ひかわ)は全国にある氷川神社の氷川で氷川神社の祭神は素戔嗚です。素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇


鳥取県の日野川流域が孝霊天皇伝説の中心地であり、現在の播磨(はりま)と呼ばれている地域には「ひかわ」は存在しません。播磨風土記には冒頭に国名の由来があったと見らていますが、冒頭部分が欠失してしまっています。私は、岡山県、島根県、鳥取県を邪馬台国時代には、ばくぜんと「はりま」と呼んでいたのだと思います。


なお風土記は元明天皇の詔により各令制国国庁が編纂したもので、律令制度を整備し、全国を統一した大和朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針としたものです。現在の島根県の出雲を出雲としたのはこの時のことだと思われます。


鳥取県日野郡日南町付近には樂樂福神社 (ささふくじんじゃ) がいくつかあり、孝霊天皇の伝説が多く残っています。「ささふく」は孝霊天皇の幼名とされていますが、私は疑問におもっています。各地の風土記は、文献として価値がないものが多く特に地名由来伝説はほとんど信用できません。「ささふく」の名称由来として

ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。

この伝承に基づいて名付けられた名称である。

神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。とありますが、この伝承は間違いです。


伯耆國の奥日野は古来より良質の砂鉄が大量に産出され、当時のハイテク技術「たたら製鉄」の文化が興隆した輝かしい歴史を持っています。樂樂福神社の「ささ」は砂鉄をあらわし「ふく」は溶鉱炉への送風をあらわしたものです。


「孝霊天皇の謎」というタイトルは、上垣内憲一先生の「謎の四世紀」P226から拝借しました。日野川は氷河と書いてあります。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

樂樂福神社 (ささふくじんじゃ) 主祭神は孝霊天皇


閲覧数:67回4件のコメント

最新記事

すべて表示

4 Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Nov 21, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

賀茂氏の正体


賀茂氏の系図の謎


 葛城地方の神々の名が他地方の神々と大きな矛盾を呈していることが特徴である。言代主命は出雲の神であり、そのほかの神々も出雲中心の神々である。  味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照姫命はオオクニヌシと素盞嗚尊・日向津姫の娘である三穂津姫との間にできた子である。 本来大和とは縁のない存在のはずである。この謎を解明するために、賀茂一族の系図を調べてみることにする。

 ① 古代豪族系図集覧

                           ┏━鴨建玉依彦命━五十手美命━麻都

   神皇産霊尊━━天神玉命━━天櫛玉命━━鴨建角身命┫

                     (八咫烏) ┗━玉依姫命━━━賀茂別雷命

                    (三島溝杭耳命)


 ② 高魂命━━━━伊久魂命━━天押立命━━陶津耳命━━━玉依彦命

         (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命)        

                    (三島溝杭耳命)

 ③ 三島鴨神社

                大山祇神━━三島溝咋耳命━三島溝杙姫┓

                                  ┣━姫鞴五十鈴姫

                             事代主神━┛

 ④ 溝咋神社

                                  ┏━天日方奇日方命

                      溝咋耳命━━━玉櫛媛命━┫

                                  ┗━媛蹈鞴五十鈴媛命


                伊弉諾尊━━日向津姫━━鵜茅草葺不合尊━━神武天皇


                素戔嗚尊━━饒速日尊

 ⑤ 賀茂氏始祖伝


   高皇産霊尊┓┏      高皇産霊神━天太玉命━━━天石戸別命━━━天富命

        ┣┫

   神皇産霊尊┛┗天神玉命━━天櫛玉命━━天神魂命━━━櫛玉命━━━━━天八咫烏


 ⑥ 飛騨口碑

                            

                    ┏━饒速日尊━━━宇摩志麻治━━━物部氏  

           思兼命┓     ┃             

              ┣天忍穂耳尊╋━天火明命(飛騨に残る)          

   伊弉諾尊┓┏━天照大神┛(36代) ┃         玉依姫━━━┓  

  (34代) ┣┫ (35代)      ┗━瓊々杵尊┓         ┣神武天皇 

   伊弉冉尊┛┗━素盞嗚尊        (37代)┣━━鵜茅草葺不合尊┛(39代)

  (出雲より)  (出雲へ)      木花咲耶姫┛      (38代)        


賀茂氏関連の複数の系図を同一人物が重なるように配置した系図が上の系図である。基準となるのは天孫降臨時期と大和朝廷成立時期であり、その時期に活躍したと思われる人物が重なるようにしてある。賀茂始祖伝や古代豪族族系図における高皇産霊神は飛騨口碑の伊弉諾尊・ウガヤ朝の第66代豊柏木幸手男彦命と重なることが分かる。また、天神玉命が飛騨口碑の天照大神で、同時にウガヤ朝の第67代春建日姫と重なり、天櫛玉命=大山祇命=飛騨口碑の天忍穂耳尊=ウガヤ朝の第68代宗像彦と重なる。ウガヤ王朝のみ1世代多いが、これは、饒速日尊と思われる第70代神心伝物部建命を第69代神足別豊鋤命に無理やりつないだためと思われる。


 ⑤賀茂始祖伝の高皇産霊尊は飛騨口碑の伊弉諾尊でウガヤ朝の第66代豊柏木幸手男彦に該当する。同じく神皇産霊尊は飛騨口碑の伊弉冉尊であり、出雲からやってきたと伝えられている。その娘ウガヤ朝67代春建日姫が飛騨口碑の天照大神に該当し、賀茂始祖伝の天活玉命に該当することになる。


八咫烏の謎


 一般に賀茂健角身命=八咫烏と言われている。しかし、これら系図によると、賀茂健角身命は神武天皇より2世代前の人物であり、八咫烏(賀茂健角身命)が神武天皇を熊野山中の道案内することはほとんど不可能である。それを可能にしている系図が⑤賀茂始祖伝の系図である。これによると、天神玉命がウガヤ朝の春建日姫であり、天櫛玉命が③と照合して、大山祇命となる。そして、次代の天神魂命が賀茂健角身命となり、櫛玉命が玉依彦となる。八咫烏と思われる天八咫烏は玉依彦の子となるのである。該当するのは五十手美命あるいは剣根命となる。おそらく五十手美命であろう。


 天神玉命と天櫛玉命、天神魂命と櫛玉命とよく似た神名が2回連続しているために、重ねられて賀茂健角身命=八咫烏となってしまった可能性がある。


 賀茂氏の後の系統を系図にしてみよう


            ┏━━高倉下命━━━天村雲命━━━━天忍人命━━┓

            ┃                       ┣建額赤命・・・(尾張氏)

            ┃             ┏━━━加奈知比咩命┛                           

            ┃      ┏━━剣根命━┫                                        

            ┏━伊牟久足尼・・・(葛城氏)

       饒速日尊━┫      ┃      ┗━━━夜麻都俾命━━久多美命━━加  

       豆良支根命━━垂見宿禰━┫

            ┃┏━玉依彦━┫                                    

                   ┗━鸇比売命

            ┃┃     ┗━━五十手美命━━━麻都躬之命━━看香名男命・・・(賀茂氏)       (開化天皇妻)

 大山祇命━━鴨建角身命━┫       (八咫烏)

            ┃┗━玉依姫━┓┏━天日方奇日方命                        

            ┃      ┣┫ (賀茂別雷命)

            ┗━━事代主命┛┗━媛踏鞴五十鈴姫┓

                             ┣綏靖天皇

                      神武天皇━━━┛


 一方饒速日尊(大物主神)系統は次のように伝えられている。


⑧ 古事記    

大物主━━━・・・・・・・・・・・櫛御方命━━飯肩巣見命━━建甕槌命━━・・意富多多泥古   

⑨ 日本書紀    

 大物主命━━・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大田田根子   

⑩ 先代旧事本紀

    ┏━都味歯八重事代主神━━天日方奇日方命・・・・(5世略)・・・・・大田々禰古命

大国主命┫

    ┗━味鋤高彦根神   


⑪                      ┏━天八現津彦命━━観松比古命━━建日別命

        大国主命━━事代主命━━━━━┫

                       ┗━天日方奇日方命(三輪君祖)


⑫      大国主━━━味鋤高彦根命━━━━━天八現津彦命━━観松彦伊呂止命


⑬ 賀茂一族系図(三輪高宮家系譜)


速素盞嗚命━━大国主命━━都美波八重事代主命━━天事代主籖入彦命━━奇日方天日方命・・・

       (和魂大物主神) (猿田彦神)     (事代主神)

       (荒魂大国魂神) (大物主神)     (玉櫛彦命)

⑭ 饒速日尊関連系図

   素盞嗚尊━━饒速日尊━━事代主命━━━━━━━奇日方天日方命

 この系図によると三輪高宮家系譜のみが1世代多い。ここで、都美波八重事代主命と天事代主籖入彦命が兄弟とすればすべての系図がつながることになる。


 ここまでのさまざまな系図を、矛盾が最小限になるようにつなぎ合わせると次のようになる。


 天活玉命の孫に鴨建角身命がいる。鴨建角身命は飛騨王家の系統の人物と推定している。天活玉命は飛騨王家の系統の人物ということになる。


ウガヤ朝・飛騨口碑・賀茂系図をつないだ系図


                                             ┗━━━━━豊玉姫━━┓

                                                        ┣━穂高見命

                                                 日子穂々出見尊┛  

このように照合すると、味鋤高彦根命は積葉八重事代主命と同一人物となる。


 天活玉命について


 祭神として祀られている神社は富山県東砺波郡井波町高瀬の高瀬神社及び石川県羽咋市寺家町の気多神社ぐらいしか見当たらない。神社伝承を頼りにこの神の実態を探ることはできないので、子孫の行動をもとに推定してみることにする。


 二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたとおもわれる。


 天活玉命は葛城氏の祖となっている。葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれている。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。


 天活玉命の孫に鴨建角身命がいる。鴨建角身命は飛騨王家の系統の人物と推定している。天活玉命は飛騨王家の系統の人物ということになる。


 天活玉命の系図を示すと下のようになる。


           ┏━天神立命━━陶津耳命

       天活玉命┫      (鴨建角身命)

           ┗━天三降命━━宇佐津彦

 宇佐津彦は神武天皇と同世代であり、鴨建角身命は2世前であり、上の系図では世代が合わない。天神立命は別命天背男命とも呼ばれており、饒速日尊の天孫降臨時阿波に降臨した天日鷲命の父である。また、天活玉命は饒速日尊と共に天孫降臨に参加している。このように天活玉命関係の系図は年代が全く一致しないのである。そこで、天三降命の妻が日向津姫の娘である市杵島姫であることをもとにして世代を調整してみることにする。


           ┏━天神立命━━━陶津耳命

       天活玉命┫ (大山祇命)(鴨建角身命)

           ┗━━天三降命━┓

                   ┣━━宇佐津彦

            ┏━市杵島姫━┛

       日向津姫━┫

            ┗━鵜茅草葺不合尊━神武天皇

 

『日本書紀』によると、高市郡大領の高市県主許梅が突然口を閉ざしてものを言えなくなり、三日後に許梅に神が着いて、「吾は高市社にいる事代主である。また、身狭社にいる生霊神である。」、「神日本磐余彦天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」、「吾は皇御孫尊の前後に立って不破まで送り奉ってから還った。今また官軍の中に発ってこれを守護する。」、「西道より軍衆が至ろうとしている。警戒せよ。」と言ったと伝わる。このことから生霊神=天活玉命は皇祖神としての性格が強く、神武天皇とつながっているはずである。飛騨口碑の天照大神=ウガヤ王朝の春建日姫・高天原建彦に該当する。しかし、上の系図では神武天皇につながらない。


 日向津姫の夫となる人物は記紀神話では素戔嗚尊であるが、古代史の復元では大山祇命(大山祇命の正体)と推定している。天三降命の父が天活玉命であることと照合すると、天活玉命=大山祇命とすると、系図がスムーズにつながることになる。天神立命と天活玉命は同一人物で、天活玉命は天照大神・高天原建彦と大山祇命の2代連続の系統名だとすると、この状況が説明できる。この仮説をもとに系図を修正すると次のようになる。

 

 他の伝承より鴨建角身命の生誕時期はAD10年頃であり、天孫降臨はAD25年頃である。天活玉命と鴨建角身命は1世ほどの差でなければならない。よって、天活玉命を神皇産霊神の子である天櫛玉命(大山祇命)と同一人物と判断する。


 

Like

tootake
Nov 20, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

倭国香媛(やまとくにかひめ、生没年不詳)は、古代日本の伝承上の人物。孝霊天皇の妃で、倭迹迹日百襲姫命吉備津彦命の母親とされる。別名は絙某姉(はえいろね)。妹の絙某弟(はえいろど)も孝霊天皇の妃とされる。『日本書紀』には出自の記載がないが、『古事記』では安寧天皇の曾孫で淡路島出身の蠅伊呂泥(はえいろね)またの名、意富夜麻登久邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)と記されている。

Like

tootake
Nov 19, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

孝霊天皇の伝承、倭迹迹日百襲姫

瀬戸内の備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。

特に伯耆の樂樂福神社には、「孝霊天皇は武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う」との由緒を持っている。また、備後(広島県府中市)の南宮神社は孝霊天皇の御陵とされている。

 孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。


 淡路の大倭玖邇阿礼比売、即ち大和国を出現せしめた姫、イザナミの神そのもの、原形のように思える。阿波国美馬郡にイザナミを名乗る唯一の式内社である伊射奈美神社が鎮座している。同じ郡に式内倭大國玉神大國敷神社二座も鎮座、淡路とよく似ている。なお名方郡に鎮座の式内天佐自能和気神社の祭神の一柱に大倭玖迩阿禮比賣命の名が見える。


古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命(しきつひこみこと)に二王が居て、その内の一人和知都美命(わちつみみこと)が淡道之御井宮にいた。とされています。そして、その和知都美命の子に蝿伊呂泥(はえいろね)=大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)(=第6世代に相当)と妹の蝿伊呂杼(はえいろど)が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっています。そして、大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)(=第7世代に相当)を儲けています。


讃岐の水主神社 伝承

 社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる

孝霊天皇は倭迹迹日百襲姫の父親

伝承には伝えられてはいないが、孝霊天皇もこの地を訪問されともに住んでいた時期があったのではないだろうか。

 孝霊天皇はAD179年西国平定のために大和から吉備中山に移動しているが、その経路は不明であった。孝霊天皇は大和から淡路島経由でこの讃岐国を訪れ、しばらく倭迹迹日百襲姫とともに暮らした。その後孝霊天皇は吉備中山に、倭迹迹日百襲姫は高松の船岡山に移動したと考える。

『日野郡史』(日野郡自治協会編・名著出版発行)

「第四章 神社」の部分に,『伯州日野郡染々福大明神記録事』


「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也

一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也・・・・・・」

これによると,孝霊天皇は孝霊45年(171年)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また,孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したという伝承もある。

13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが,古事記・日本書紀は黙して語らない。

鳥取県溝口町鬼住山鬼退治伝承


鬼住山伝説

その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。

 先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。

 されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。

 或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。

「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。

 うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。

 麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、

「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。

                                       楽楽福神社古文書より


このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。


鬼住山伝承別伝


 伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。

 これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。

「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。

 大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。

 また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。


溝口町発行「鬼住山ものがたり」より


この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。

鬼を退治した人物

 ・ 四道将軍の大吉備津彦説

 ・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説

 ・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝う

 ・ 楽楽森彦命説

 ・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説

鬼住山に来た方向

 ・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。

 ・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。

 ・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。


孝霊山の伝承

鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている

第7代孝霊天皇の時代のことです。

「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」

「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」

「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」

などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。

 天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。

 天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。

 伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。


               溝口町発行 「鬼住山ものがたり」より

伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったとも考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。


鳥取県日南町宮内の崩御山

崩御山は孝霊天皇がこの地に滞在中、その皇后細姫が孝霊71年にこの地でなくなり、この崩御山に葬られたというものである


孝霊天皇がこの地で崩御したと伝えられているが,孝霊天皇はこの後も活躍しており,亡くなったのは鶯王であろう。また,孝霊天皇の幼名は楽楽福(ササフク)。


日野郡史

  「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」

別伝

「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」

備中の伝承(新見市石蟹)

「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。

     そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」


 石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところがあり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。

 これらの伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃ったが、吉備津彦が応援に駆けつけ、たちまちたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は日南町霞まで退却しそこを拠点に最後の抵抗を謀ったが大倉山の麓にて降参したと推定するのである。そうすると、孝霊天皇は石蟹魁師荒仁を打ち破った後、鬼林山の牛鬼を破り、そのまま日野川を下って鬼住山の出雲族と戦うことになったと考える。


佐々福神社

鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。

「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県野義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であると解される。倭大乱を平定するためにここまで来られて拠点とされた。


佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。

倭健命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。

 鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。


鳥取県北栄町宮崎神社

由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊弉諾尊伊弉冉尊を奉齋し給ひき、是れ本社の濫觴なりと、斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ・・・又御難風の御時尊の御沓一隻海に失い給いしが後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり、土人この沓を奉して祀れり、是今の汐宮なりという」とある。


伊予の伝承

伊予神社

河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。

速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。


Like

tootake
Nov 19, 2023
Rated 5 out of 5 stars.
Like
bottom of page