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氣比神宮と舟津神社

更新日:2 日前

第176話~地球幾何学7


継体天皇陵と牧野車塚古墳を一直線に結ぶ線は福井県入り線上に氣比神宮があらわれます。主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのかみ)、古事記によれば、はじめ品陀和気命(ほむたわけのみこと=応神天皇)の前名であったが、神功皇后の朝鮮遠征の帰途、角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神(誉田別神)が夢に現われて、名をとりかえることを望んだといいます。名は菜(食物)との説もあり、この逸話には大した意味はありません。

氣比神宮は福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座します。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝です。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社です。仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、越前国の一宮に位置づけられています。 仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇は架空の人物です。応神天皇は、大彦ではないかと私は思っています。なぜ架空かというと記紀の原資料(Q資料的な)を書いたのはイカシコオだからです。イカガシコオが生きていて時代の記紀の内容は色んな場面で辻褄が合うのですが、イカガシコオが死んでからの記紀の記事はデタラメとしか思えない内容ばかりです。イカガシコオ以降は歴史を書き残す人がいなかったと思われます。継体天皇が即位するまで、日本の歴史は空白です。律令制度を整備し、国内の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針としたのは元明天皇です。詔により各令制国国庁が編纂されたのはBC713年です。


大彦は、このプログでも述べて来たように、数々の功績がありますが、大彦を祭る神社はほとんどありません。と思っていたら、継体天皇陵と牧野車塚古墳を一直線に結ぶ線上に上記の氣比神宮があり、さらにその先に舟津神社(福井県鯖江市舟津町)がありました。祭神は、大彦です。応神天皇は、八幡神ともいわれ武神・軍神としてあがめられていますが、戦歴からみても、大彦の方が、武勇の神にふさわしいと思います。


大彦命(大毘古命)の北陸道派遣のことは、古事記、日本書紀の崇神天皇の時代のこととして書かれており、舟津社記』によれば、大彦命は、淡海より角鹿の津に赴き、八田という所に着き舟場より乗船して東進し、途中塩垂の長という長老の教えをうけ、深江という所に到り、舟を着けたので舟津ということになったといいます。この長老こそ猿田彦命で、種々教導をうけ、平定の功をなしたといいます。大彦の北陸道遠征


氣比神宮の境内には猿田彦神社もあります。猿田彦の逸話もあまり信用できません。それよりも、同じ氣比神宮の境内にある角鹿神社の方が重要です。祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。 ツヌガアラシトはアメノヒボコ(天日槍、古事記では天之日矛)と同一人物と思われ、朝鮮南部の国・任那(みまな)の皇子で、第10代崇神天皇の御代に氣比の浦に貢物を携えて上陸したと伝えられています。敦賀(つるが)の地名の由来はツヌガアラシヒトの”ツヌガ”から来ていると思われます。


昔、新羅しらぎの国の王子、天日槍命あめのひぼこのみことをのせた船が但馬の国、気比(けい)の村に流れ着いたとされています。気比はケヒです。天日槍命 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 (the-tajima.com)


<関連項目>


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


船津神社 福井県鯖江市舟津町


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tootake
Dec 13, 2023
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tootake
Dec 13, 2023
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気比宮古殿地の事(由緒書き)  気比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗(かつ)て手筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は気比之大神降臨の地であり、伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修したところとも伝えられる。  土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、その期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。  戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公の参道はかろうじてそのままの形で残された。  大宝2年(702年)造営以前の気比神宮はこの土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。  この聖域を通して気比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である。

八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、承久記には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされています。誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬しています。


守居神社について

醍醐天皇延喜18年(918年) 此の地に鎮座。素戔鳴大神(すさのおのおおかみ)・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を御祭神としております。 社記に天道神・太歳神齢殺神また素戔鳴尊。三輪明神・清瀧明神・日吉権現・新羅明神・三井神とも書いてあります。 いづれも淀川流域の守護神として此の地に土居を築き社殿を構えてお祀りされたのが創りで、地名を土居の庄と称し昔は、土居神社と称号されておりました。

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