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七支刀~邪馬台国異聞1

更新日:4月9日

第126話


神功皇后47年(BC247年?)新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、千熊長彦なるものが新羅を攻めたとあります。


またその二年後に、荒田別や鹿我別ら軍勢を派遣して卓淳国に至り、新羅を討った。さらに百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)らが荒田別らに協力し新羅軍をやぶり、倭・百済連合軍は、比自㶱、南加羅、㖨国安羅多羅卓淳加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとあります。


その後、百済の使である久氐(くてい)らが、千熊長彦の引率で来倭し、神功皇后52年(BC252年)に、百済が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと日本書紀は書かれています。


七支刀の実物は、奈良県天理市の石上神宮にあります。全長74.8センチメートル、剣身の左右に段違いに3本ずつ、6本の枝刃を持つ。剣身に金象嵌の銘文が記され国宝に指定されます。


ここで問題になるのが、年号です。神功皇后47年がBC247年であれば、魏の正始8年で卑弥呼がなくなったとされる年です。この時には、ウツシコオ大彦、事代主などのこのプログの主要な登場人物が活躍していたと思われます。尤も、一般的には神功皇后47年はBC247年に120年たして367年のことだとされています。120年足すのは干支(えと)の二運繰り上げです。


七支刀には銘文が刻んであり、「泰■四年」の文字が確認でき、年紀の解釈に関して以下のような諸説があります。


泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥

<判読>

泰始四年(268年)夏の中月なる5月、最も夏なる日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正午の刻に、百度鍛えた鋼の七支刀を造る。これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。


この説が、日本書紀神功皇后摂政52年条(252年)に最も近い説です。百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたもので。晋(西晋)の皇帝は世祖武帝司馬炎です。


なお、この時七支刀と同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする説があります。この鏡は、鏡背の主文様帯に乳(円形の突起)が7つあり、七子鏡の名称に相応しいといいます。これらの遺物は、大雨で崩れた大仙陵古墳(仁徳天皇陵)から出土したものと伝えられています。


268年であれば、ミマキイリヒコ(崇神天皇)が即位した直後ということになります。

七支刀が収められている石上神社を創建したのはイカガシコオです。(石上神社官略記)


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




七支刀


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2 comentarios

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tootake
20 oct 2023
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神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」は磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。「高日子」は「高比売」の対、「根」は「根元」の意の親称と解して、名義を「立派な鋤の、高く輝く太陽の子」と考える説もある[4]。


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tootake
20 oct 2023
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