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邪馬台国前史~熊野と金

更新日:4月9日

第118話~天香語山命


 BC213年和歌山県名草  前回の話(邪馬台国前史1)はこちらです。


その夜は宴会となり、渚姫が大歳の接待をした。彦幸の父は大名草彦と呼ばれており大陸との交易で富を築いた名草一の分限者で、大賈とも天富命とも呼ばれていた。大賈(たいこ)は「大商人、富裕な商人、豪商」の意味で、天富命は神武の重臣とされています。


宴会の席には、とれたての魚が山と積まれ、鹿や猪、雉の肉が一つの鍋で豪快に煮込まれていた。大歳は渚姫が気に入ったらしく自分の右隣に座らせて肩に手をまわしていた。

大歳は、大和の三島に拠点を豪族で大王(おおきみ)と呼ばれている。


大歳の左隣には、彦幸と同じくらいの年齢の少年がいた。名前は大彦、母親は高津姫(コウズ姫)。ヤマトの倉治(クラジ)に住んでおり、大彦は高倉下(タカクラジト=天香語山命)と呼ばれている。父親譲りで凛々しい顔をしている。側には鉄でできた剣を置いていて父親の警護をしているらしい。

鉄で出来た剣の名前は天の村雲だと大彦はすぐに友達となった彦幸に教えてくれた。



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天香語山命(あめのかごやま)


天香語山命は高倉下命の別名です。先代旧事本紀では、饒速日尊の天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市)に住んでいたとされています。


第107話で触れたゴトビキ岩=神倉神社(は和歌山県新宮市の神社)の祭神は高倉下です。一方で、天香久山(天香具山:あまのかぐやま)奈良県橿原市にある山です。

天香語山命と天香久山はなんか関係があるのでしょうか。


日本書紀の別伝によりますと、「石凝姥を以て治工(たくみ)として、天香山の金を採りて、日矛(鏡の間違いか?)を作らしむ。是即ち紀伊国に所坐(まします)日前神なり。」とあります。天香山で金がとれたのでしょうか?


三重県の熊野市では紀州鉱山が最近まで稼働していました。ここでは様々な鉱物が産出しています。金(かね)とは、これらの鉱物のことです。


 熊野詣(くまのもうで)とは、紀伊半島南部、熊野にある、本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の熊野三山を参詣することです。院政期には度重なる熊野御幸が行われています。上垣内憲一先生によると「白拍子と鳥羽離宮遊んでいた贅沢三昧の遊び人の院政期の法皇たちが、何故そんなに大変な難行の熊野詣に精勤したのだろうか。それはつまり宗教行為を隠れ蓑にして、金を確保することが目的だった。」謎の四世紀p140


元々は、天香久山は熊野にある山で、この鉱山の持ち主が素戔嗚だったのです。そして素戔嗚の子の大歳と孫の高倉下がそこの管理を任されていたのではないでしょうか。高倉下(大国主)の別名はオオナムチで(大穴持ち=鉱山の管理者)という意味です。記紀版Q資料には天香具山のことが書かれていたのですが、五百年後の記紀の著者たちにはその場所が分からなかったため奈良盆地の山の一つを選んで聖なる山である天香具山としたのです。そしてそれが大彦と関係があることを悟られないように大彦を一字かえて天香語山命としたのでしょう。

この時代(BC200年代前半)は大和(邪馬台国)は奈良盆地には進出していないないので、奈良県の天香久山はただの山だった筈です。


現在でこそ熊野三山は一体として捉えられていますが、元々は熊野川を御神体(神の依代)とする信仰(本宮)、那智の滝を御神体とする信仰(那智)、神倉山の「ごとびき岩」を神の依代 とする信仰(速玉)、それぞれルーツの異なる個別独立した自然神信仰でした。


前回の話(邪馬台国前史1)はこちらです。 続き(邪馬台国前史3)はこちらです。


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。





那智の滝


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tootake
12 ott 2023
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