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邪馬台国が記録されなかった理由

tootake

更新日:2024年4月27日

第12話


邪馬台国は北摂にあったという説は、全くないわけではありません。

何人かの研究者が言及されています。しかし、すぐに反論されてしまっています。


「たとえば、山城、近江、丹波、河内あたりに邪馬台国があったということですが、その場合でも、近隣の大和すら押さえられずに九州は押さえていたとか、中国と盛んに交流していたというのはまった奇異です。 となるとやはり邪馬台は、北九州かその周辺せいぜい、吉備や出雲、、、」〇〇著 「最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国」

大和すら押さえられずとはどういう意味でしょう?長脛彦はともかく饒速日は物部氏です。イカガシコオも物部氏で、元々身内なのです。長脛彦も奈良盆地ではなく河内の人です。

藤原(中臣)、阿部、菅原は三島ないし御牧(ミマキ)の出身ですし、他の大和の豪族と言えば、大友氏(近江が根拠)、葛城氏、蘇我氏なのですが、いずれも崇神朝よりだいぶ後のことです。これらの豪族は、ミマキ・入彦が御牧国から奈良盆地からやって来たから彼らも来たのです。奈良というのも茨木市の奈良から受け継いだものでしょう。


葛城王朝の天皇の陵墓される場所には円墳があるのですが、巨大古墳の時代であるのにみすぼらしいのです。御所市教育委員会 藤田和尊氏によれば、後に葛城氏が応神朝の外戚として栄えたときに、葛城の地には元々天皇の陵墓などなかったのに、葛城氏の過去を飾るために伝承を変えたのだとされています。


つまり崇神朝(邪馬台国)は、奈良盆地の大和を抑える必要など全くありません。

長脛彦、饒速日との戦闘は、崇神朝での内乱と考えられます。


後記:崇神天皇が桜井に進出するまでは、葛城氏は奈良盆地にはいなかったはずです。土蜘蛛、アタ族などが住んでいましたが、神武(スサノオ)によって征服されてしまいました。



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<後記:2024年1月8日>


この記事を書いてから、6か月以上たちました。奈良盆地には、既に鉱山、水運などの利権が発生しており、それをめぐって様々な戦いもあったという認識を持つようになりました。


そして、三島、高槻、枚方、交野が邪馬台国だったとしたら、なぜその記録がないのかとい疑問を示す学者もいます。それは、疫病の大流行により、いちどこの地域が放棄されたらです。楠葉を糞葉ということから、この地域を忌むべき地域と思っていたことは明らかです。ですからここに大和(邪馬台国)・奈良があったことも記録しなかったのです。


「屎褌(くそばかま)」とは現在の大阪府枚方市樟葉のことです。明らかな穢名説話です。



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<蛇足の追記>

この北摂の地が武埴安彦命の外戚・河内青玉繁の拠点であったとする研究者もいます。

私は、武埴安彦命(タケハニヤス)が大和朝廷(邪馬台国)も中でもトップクラスの人物だったと思っています。タケハニヤスの乱は、政権争いだったのです。


<タケハニヤスの乱>

タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)

タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


 
 
 

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
09. okt. 2024
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◇秦氏の神「八幡神」


 ところで、空海の母の「阿古屋(あこや)」を「玉依(たまより)姫」と尊称する。

 「玉依(タマヨリ)」は神の名で、玉依毘売命・玉依日売命(タマヨリヒメノミコト)・活玉依毘売命(イキタマヨリヒメノミコト)であり、海神(ワタツミノカミ)の娘・豊玉姫命(トヨタマノヒメノミコト)の妹である。吉野の水分(みくまり)神社や京都の下鴨神社は祭神としてこの「玉依(姫)」を祀っている。


 また「タマヨリ」は、「霊依(タマヨリ)」であり、「憑依」「魂憑」、すなわち神霊神威が依り憑くこと。「ヒメ」はその依り憑く巫女、あるいは乙女の意味である。


 さらに「玉依(姫)」には子供を産む女性特有の能力が強く反映されている。神話の「海幸彦・山幸彦」に出てくる綿津見大神(海神、ワタツミノカミ)の娘の例はこの代表的な事例である。


 「タマヨリ」の女性は神との婚姻による処女懐胎によって神の子を身ごもったり、選ばれて神の妻となったりする。そのような巫女的霊能のある女性を「玉依」と呼ぶことがある。


 空海の母は、実家跡といわれる今の多度津町仏母院近くの八幡社に子宝授与を祈願して空海を身篭ったという(仏母院に伝わる空海誕生伝説)。この八幡社は、多度津町の海べりに鎮座し応神天皇と神功皇后・比売神を祀る熊手八幡宮の分社で、熊手八幡宮はおそらくこの地一帯の秦氏の産土神(うぶすなかみ)であった。秦氏の奉ずる八幡神(やはたのかみ)は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の(領有の)神であるとともにお産の神(産神)であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主祭神とし神功皇后(応神天皇の后)と比売神(ひめかみ、主祭神の娘等)をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。


 さて秦氏が奉じた八幡神についてである。八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分県宇佐市のあたりは昔の豊前すなわち「秦王国」で、渡来した秦氏の民が多く住むところであった。


宇佐八幡宮                 熊手八幡宮


 ある説によれば、この土地に秦氏系の渡来氏族辛嶋(からしま)氏があって、新羅からきてこの地の河原に住んだという「香(鹿)春」(かはる、かわら)の神を奉じ、その神とともに宇佐郡に移って定着し、その「香春神」にヤマト王権の使いできた大神比義(おおみわ(九州では、おおが)のひぎ)が応神天皇の霊を付与して「ヤハタの神」(=香春八幡神)としたという。


 香春神とは辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)。「辛国」(からくに)は加羅の国。すなわち加羅から渡来した神である。辛国息長大姫大目命を祀る香春神社(辛国息長大姫大目神社)は、古来銅の産出で有名な香春岳の山麓にある。ほかに忍骨命(おしほねの)・豊比売命(とよひめのみこと)を祀る。息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命について諸説あるが、ともに整合性のある説ではない。「香春」(かはる)はもともと「カル」。「カル」は、金属とくに銅のことである。


 「辛嶋」(からしま)とは「日本の加羅(秦の国)」という意味になろう。その辛嶋氏の加羅の国にヤマト王権(蘇我馬子)の意を受けた大神比義が派遣され、渡来の神辛国息長大姫大目命を「ヤハタの神」(=香春八幡神)にチェンジさせたのである。


『八幡宇佐宮御託宣集』に、


 辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、

 吾ハ日本ノ神トナレリ とある。


大神比義の大神氏も辛嶋氏と同じルーツの渡来系氏族だといわれる。以後大神氏は、宇佐地域に居住するようになる(豊後大神氏)。辛嶋氏も香春の地から宇佐の地(豊後)に移っていた。


 この「ヤハタの神」(=香春八幡神)が何度かの移座を経て神亀2年(725)、現在の宇佐小倉(椋)山に辛嶋勝波豆米の託宣によって遷座される。


 ここには、この地の国造宇佐氏によって信仰されていた比売神三座が馬城峯(御許山)から移されていた。その社に応神天皇の霊を付与された「ヤハタの神」が主祭神として遷座されたのである。宇佐八幡のはじまりである。ここに「秦王国」に辛嶋氏によって奉じられた渡来の神が、辛嶋氏(と大神氏)によって日本の国神(くにがみ)「八幡神」となったのである。このことは同時に辛嶋氏つまり秦氏の日本同化策であった。事実、この半世紀前の「白村江の戦」に辛嶋氏は出兵させられている。


 「ヤハタ」の意味には史家の間に諸説ある。しかし、「ヤ」(八)は「弥」で、数が多いこと、幾重にも重なる様のこと。「ハタ」(幡)は「幟」「旗」で、神々が降臨する依り代。つまり「ヤハタ」とは「数多くの幡(が幾重にも重なって風になびく)」の意味で、祭祀の際に降臨する神の依り代として何本も立てる幡、と考えるのが妥当だろう。韓国で祭祀の際に数多くの旗が並び立てられる例があるのに符合する。


◇秦氏のシャーマニズム、山岳信仰と弥勒信仰


 ミルチア・エリアーデの言葉を借りるまでもなく、古代のシャーマンが鍛冶師と一体であることは多くの専門家が指摘しているところである。日本で言う「巫」の周辺では、氏族神の祭祀とともに鉱山・採鉱・精錬・合金・メッキ・薬品精製・医術といったサイエンスやテクノロジーが発達していた。


 「秦王国」といわれていた豊前には、「秦氏の宗教」ともいうべき古代シャーマニズムと道教と仏教が混淆したハイブリッドな常世信仰があり、豊国奇巫(とよくにのくしかむなぎ)や豊国法師といったシャーマンが活躍していた。


 『日本書紀』の用明天皇2年4月2日条には、用明天皇の病気に際し、皇弟皇子がこの豊国法師を呼んで内裏に入れたところ、物部守屋大連が反対して怒ったことが書かれている。


 わが国への仏教公伝は、宣化天皇3年(538)と欽明天皇13年(552)の二説(538説が有力)あるが、崇仏派天皇だった用明天皇が三宝(仏・法・僧)への帰依を表明しつつも、周囲の薦めで秦氏系の法師(仏教僧ではない)が内裏に招き入れられた記述から、百済系の仏教を容認したヤマト王権(蘇我氏、用明・聖徳太子)がシャーマンのもつ病魔除け呪術や医薬品の効能に期待し、豊前(秦系・新羅系)の高度な文化や医術の情報をすでにキャッチしていたことが読みとれる。


 その「秦王国」には、常世信仰や山岳信仰や弥勒信仰を含む新羅系仏教が伝わっていた。新羅には古くから、熊野信仰につながる擬死再生の常世信仰があった。太子や花郎(ふぁらん)と呼ばれる山岳修行者は神が降臨した依り代とみなされ、鉱脈を探索するために山に入り、洞窟(=穴)などに篭って斎戒修行を行った。そこに仏教の弥勒下生信仰が重なり、彼らに弥勒菩薩が降臨(憑依)することから、彼らは弥勒の化身だといわれるようになった。


 豊前には英彦山という日本の代表的な修験の霊山がある。この英彦山には、弥勒菩薩の浄土(兜率天)内院の四十九院に付会した四十九窟がある。その英彦山と、英彦山で修行し「法医」とまでいわれた法蓮という僧(辛嶋氏系宇佐氏の氏寺・虚空蔵寺の座主や宇佐八幡宮の神宮寺・弥勒寺の別当)と、宇佐八幡宮の八幡大菩薩にかかわる弥勒信仰の伝承には、秦氏がもたらした新羅の仏教が大きく影を落としていた。


英彦山登山口、銅の鳥            英彦山中岳山頂


 この秦氏の弥勒信仰はやがて、秦氏が本拠地とした山背太秦に秦河勝(はたのかわかつ)が建てた蜂岡寺(後の広隆寺)の本尊弥勒半跏思惟像や、聖徳太子の伝建立七寺の本尊弥勒半跏思惟像や、平城京の官大寺に流行した弥勒信仰や、空海の弥勒信仰にも大きな影響を及ぼした。


 余談ながら、秦氏が豊前の地に展開した宇佐八幡やシャーマニズムから想い起されるのは、神護景雲3年(769)に起きた宇佐八幡宮神託事件とその主役の道鏡の雑密呪術である。道鏡は大和の葛城山に篭り、雑密の宿曜法に習熟したという。葛城山は役行者以後葛城修験の道場となるが、役行者以前から豊前の英彦山の山岳修行と同系の山中篭行が行われていた。かれは山中篭行を行うなかで、すでに日本に伝えられていた雑密系の修法を身につけたのであろう。当時としては新しい雑密呪術を駆使して度々霊験を顕わしたのか、天皇の病気平癒を担うシャーマンの役を与えられたのである。かれは女帝孝謙上皇(後に重祚して称徳天皇)の看病禅師として宮中に出仕し、雑密呪術を以て上皇の病気を治し妖僧とまでいわれた。


 上皇の信頼を得た彼は、「藤原仲麻呂の乱」を経て、復位した称徳天皇の側近となり、天平神護元年には僧侶でありながら太政大臣となり、翌年法王の座に上りつめ、朝廷の実権をにぎった。


 神護景雲3年(769)、兄道鏡の栄達とともに出世の道を急速に進んだ実弟で、大宰帥(大宰府の長官)大納言弓削浄人(ゆげのきよひと)と、大宰主神(だざいのかんずかさ、大宰府の神祇長官)だった(中臣)習宜阿曽麻呂((なかとみの)すげのあそまろ)が道鏡を皇位につけることをもくろみ、道鏡を皇位につけることが神意にかなう旨の宇佐八幡の神託を朝廷に奏上した。宇佐八幡は早速、称徳天皇に対し側近の女官であった和気広虫(わけのひろむし、出家して法均)を派遣するよう求めたが、からだが弱かったため代りに弟の和気清麻呂が宇佐八幡に下向した。


 ところが、大神の禰宜・辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)への託宣で、道鏡を皇位につける神託は偽りだということがわかり、清麻呂は帰ってそれを称徳に報告すると、道鏡を皇位に就けたかった称徳は怒り、清麻呂を改名までさせて大隈国へ配流してしまった。その翌年に称徳天皇が崩御すると道鏡の権勢は急速に衰え、やがて下野国の薬師寺へ左遷され没した。


 秦氏は技術力・開発力・経済力・宗教文化によって大きな富と権勢を得、その隠然たる力をもって朝廷のさまざまな氏族と混淆したが、徹底して政権の表舞台には立たなかった。同系の山岳信仰をもつ氏族として道鏡の栄華と失脚を他山の石として見ていたのかもしれない。渡来人の氏族には、謂われなき冤罪で非業の死を遂げた人材が数々あった。分をわきまえることに敏だったのだろう。


◇秦氏の虚空蔵信仰


 先に述べた辛嶋氏の本拠地辛嶋郷に宇佐地方で最初に建てられた仏教寺院を虚空蔵寺といった。7世紀末、白鳳時代に辛嶋氏と宇佐氏によって創建され、壮大な法隆寺式伽藍を誇ったという。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられた。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺はこの虚空蔵寺を改名したものである。


 虚空蔵寺の寺名になぜ虚空蔵菩薩の名が用いられたかは謎であるが、秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があった。


 まず、虚空蔵寺の別当に任じられた法蓮という花郎(ふぁらん)であるが、このシャーマンは7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学び、先に述べた「秦王国」の霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術に長じていたという。


 唯識(法相)に虚空蔵三昧が説かれることはあまり知られていないが、日想観を修していた法蓮が山中の洞窟で虚空蔵菩薩のシンボルたる金星(太白)を観想する占星巫術を行っていたとしてもおかしくはない。


 医術に長けていたとは、おそらくその巫術と関係があり、医術とはつまり?術(不老長寿の道術)のことで、石薬(鉱物系の医薬)の生成とその巫術的使用を指すのであろう。法蓮という僧は、道教系雑密の?術に長けたシャーマンであり、同時に常世の行者として金星(虚空蔵菩薩)を観想する仏教僧だったと思われる。虚空蔵寺の名は、宇佐の里にはじめて宇宙の仏が降臨したことを隠喩したのかもしれない。


 飛鳥時代すでに、斑鳩の法興寺(飛鳥寺、後に元興寺)には虚空蔵菩薩があって、7世紀には大和の地に居住する渡来人たち(秦氏・東漢氏ら)、とくに製銅・製鉄・鍛冶・冶金あるいは養蚕・織物・漆製造・漆工芸を職能とする技術者の間で虚空蔵信仰があったことが知られている。


 宇佐地方でも同じことがいえるであろう。豊前地方に展開した秦氏が養蚕・織物・漆製造・漆工芸の技術に長けていたことは言うまでもない。


 まず養蚕の神としての虚空蔵菩薩であるが、蚕の糞を蚕糞(こくそ)といい、虚空蔵と語呂合わせができることと、蚕は幼虫→繭→蛾と死と再生(擬死再生)を三度くりかえすので(不老不死の)常世虫といい、それが常世の神(蚕神(かいこがみ))として信仰されたことから、養蚕や絹織物に励む秦氏の民にとって、蚕(常世虫)と常世の神(蚕神)と虚空蔵菩薩は一体となったのである。


 豊前「秦王国」の香春郡には桑原という地域があり、秦氏が勢力を伸ばした大隈国にも桑原郡という郡名がある。蚕用の桑の木が一面に生い茂っている様を思い起こさせる。


 また、漆工職の祖神としての虚空蔵菩薩であるが、漆工職が使う木屎(こくそ、木粉を漆に混ぜたもの)と語呂合わせができ、漆工職人とくに木地師の間では護持仏として虚空蔵菩薩が敬われている。


 『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項に、倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。


 宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。

宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。

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tootake
10. okt. 2023
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