竹村屯倉(たかふ の みやけ)~三島郡
- tootake
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第1112話
竹村屯倉(たかふ の みやけ)は、摂津国三島郡に設置された大和朝廷の直轄地です。屯倉(みやけ)は三宅(みやけ)とも書きます。
屯倉の範囲は、現在の摂津市の乙辻(おとのつじ)・小坪井・鶴野(つるの)と、茨木市の倉垣内(くらがうち)・丑寅(うしとら)の一帯辺りです。
三島竹村屯倉は大河内直味張(おおしこうちのあたいあじはり)のさし出す钁丁(くわよほろ)によって耕作され,これが河内県の部曲を田部(たべ)とすることのはじめである、としています。钁丁(くわよぼろ)とは、屯倉(みやけ)に付属する田地の耕作者(農夫)のことで、田部(たべ)とは大和王権が直接支配した人民のうち屯倉(みやけ)で耕作した者を指します。
欽明17年10月条によると、大身狭(おおむさ),小身狭(こむさ)屯倉をおいたとき、処々の韓人(高麗人)をもっておのおのの田部としたとあります。
大身狭屯倉と小身狭屯倉は、古代日本の屯倉制度において重要な役割を果たした屯倉の一つです。これらの屯倉は、韓人や高麗人を含む人々を特定の地域に配置し、その地域の農業や労働力を管理するためのものでした。
大身狭屯倉は、韓人の大身狭屯倉で、小身狭屯倉は、高麗人の屯倉とされています。
この身狭とは、第1099話:身狭青は土師(はじ)氏~磯歯津道(2)で書いた、磯歯津道を造った、身狭 青(むさ の あお)の一族のことであると思われます。
第1099話では、身狭 青=土師氏のリーダー=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米としています。
竹村屯倉の経営は、日本書紀では、三嶋県主と、大河内氏があたっていたが、やがて大和朝廷の派遣する三宅連と武生連(たけふ の むらじ)が管理するところとなったとあります。
武生氏は、新撰姓氏録、摂津国神別では角凝魂命男伊佐布魂命之後也とあります。三島氏の親族でもあり、この屯倉の経営に何らかの関係のあった氏族であったとみられています。
角凝魂命男伊佐布魂命(つのこり)は、大阪府阪南市にある波太神社では、少彦名命が鳥取連の祖「角凝魂命」として祀られています。
※角凝魂命=少彦名命=台代です。~第640話:大神神社を探る(3)~磐座神社
武生氏(たけふうじ)は、応神天皇の時代に、百済より渡来したと伝わる王仁*の子孫とされる西文氏系列の氏族です。武生宿禰氏*は「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」とあります。*王仁は台与です~第784話:王仁(2):伝王仁墓
*武生宿禰は武内宿祢でしょう。武内宿祢は台与の父のウツシコオ(内色許男命)です。
~第502話:武内宿禰はウツシコオ(2)
大阪府茨木市蔵垣内3丁目にある井於神社は、第504話:虚空蔵菩薩と丑寅(茨木市)
で書いたように、台与とかかわりのある地です。
※阿智氏は、日本古代氏族事典では、井上姓と通じていて、阿智使主の後裔伝承を持ち、その名は河内国志紀郡井於郷の地名にもとづくという説明もあります。
河内国志紀郡井於郷とは、大阪府茨木市蔵内のことです。
井於神社の隣が三宅小学校です。この辺りには、丑寅、天王(=スサノオ)、玉櫛(三島の溝杭の娘)、五十鈴(神武天皇皇后)、は私にとって懐かしい地名です。
筆者は、大阪府茨木市蔵内で生まれました。井於神社は、私の遊び場でした。
関連項目:第6話:三島(御島) 本当の奈良
:第887話:泉井上神社と井於神社
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<蛇足の追記>
日本書紀:巻第十九によれば、安閑天皇*元年(推定534年)閏12月に天皇が三嶋に行幸した際に、大河内直味張は理由があって狭井田*6町を大伴金村*に賄うことで贖罪をしたといいます。これにより、河内県(こうちのあがた)の部曲をもって田部とすることが始まったとされています。
*大河内氏は、天津日子根命(活津日子根命)を子孫と称する一族です。天津日子根命は台与です。~第717話:活津日子根命は彦根(地名)
*狭井田の狭井は台代のことです。~第639話:大神神社を探る(2)~狭井神社
*安閑天皇は台代です。~第720話:中臣印達神社:権現は台与
*大伴金村は継体天皇を河内に迎え入れた人物です。第1110話:河内馬飼 荒籠は、、、では、河内馬飼 荒籠は継体天皇を河内に迎え入れています。
継体天皇は台与です。~継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社 継体天皇は台与3~田井(寝屋川市)
大伴金村=河内馬飼 荒籠=ウツシコオです。
これまでの記事はこちらです。
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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




こんにちは。いつも私の歴史探求ブログを読んでくださり、本当にありがとうございます。今回は、摂津の地でひっそりと歴史を語り継ぐ「竹村屯倉(たかふのみやけ)」についてお話ししますね。
屯倉(みやけ)とは何か?
当時の大和朝廷にとって、屯倉は非常に重要な直轄地でした。現在の茨木市や摂津市の一帯に広がっていたと考えられています。当時の人々がどのようにこの地を開拓し、王権を支えていたのか、想像するとワクワクしませんか?
地域の歴史に触れる
当時の農夫である「钁丁(くわよぼろ)」たちの働きが、後の田部制度の基礎になったと言われています。歴史の転換点が実は身近な場所にあったなんて、驚きですよね。
韓人との交流
大身狭屯倉と小身狭屯倉の記述からは、大陸と古代日本との深い関わりが見えてきます。異国の文化がこの地でどう溶け込んでいたのでしょうか。
<台与シリーズ>
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