武内宿禰はウツシコオ(2)
更新日:2024年12月2日
第502話 #武内宿祢 #台与(豊) #邪馬台国 #応神天皇 #仁徳天皇
武内宿禰は、景行天皇→成務天皇→仲哀天皇→応神天皇→仁徳天皇の5人の天皇に仕えたとされています。誰しもがこの記紀の記述には、疑問を抱いています。
武内宿禰は仁徳天皇55年に280歳で死去、帝王編年記では仁徳天皇78年に年齢未詳(一説として312歳)で死去したといわれていることなどから、架空の人物ではないかとも疑われています。しかし、三国史記には、倭王の命を受けて新羅を攻め、奈解尼師今王の子で舒弗邯の昔于老を処刑した于道朱君(うとうしゅくん)という倭人の将軍が登場し、復元された上代日本語における「ウチスクネ:内宿禰」*の発音に対応できること、暦年研究から奈解尼師今の後継である助賁王や沾解王の在位年代が神功皇后の活動年代と同時代と見られることなどから、「于道朱君」はすなわち日本書紀の武内宿禰であり、武内宿禰は実在した人物であるとする説が唱えられています。~第327話:于道朱君の衝撃~新羅
私は、第324話で武内宿禰はウツシコオ!!としています。
武は建で竹でウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)のキーワードです。内のウチはウツシコオのウチです。*于道朱君(うとうしゅくん)=ウチスクネ:内宿禰=ウツシコオ(内色許男命)
※5人の天皇はすべて台与(豊)とすれば、疑問はなくなります。
景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇=台与(豊)
とすればこれまでこのブログで述べてきた、台与(豊)とウツシコオのコンビの活躍が見えてきます。
・第12代景行天皇紀
武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇(台与)に進言した。
・神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年4月3日条
神功皇后(台与)が神田に儺河(福岡平野を流れる那珂川)の水を引きたいと思い、溝を掘ったが大岩にあたった。武内宿禰が皇后に召されて剣・鏡を捧げ神祇に祈ると、溝は通じた。~狂心渠(たわむれごころのみぞ)
・新羅と百済とで貢物の問題が起こり、皇后(台与)が誰を百済に遣わしたら良いか天神に問うたところ、天神は武内宿禰をして議を行わしめ、千熊長彦を使者とするよう答えた。
~第328話:沙至比跪(サチヒコ)
・応神天皇7年9月条
高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝した際に、応神天皇(台与)の命でそれら韓人を率いて韓人池を造った。~この池は稲作のためのものでしょう。hidemaru3375.com/post/神武東征と稲作文化
仁徳天皇50年3月5日条
茨田堤に雁が卵を産んだことから、仁徳天皇(台与)と武内宿禰とは長生を讃えて歌を詠みあった。~ヤマタノオロチは淀川~茨田堤2 、聖徳太子伝説~堀江と茨田堤
・高良大社では、祭神の「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる。
~八幡神は台与!! 応神天皇(八幡神)=台与(豊)
・ 和歌山市松原では、武内宿禰の産湯に使ったという「武内宿禰誕生井」が伝わる(武内宿禰誕生井(和歌山県)より)。
武内宿禰の生まれについて景行天皇紀によると、天皇は紀伊に阿備柏原(あびのかしわばら:現・和歌山市相坂・松原)にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に儲けたのが武内宿禰であるといいます。ウツシコオは和歌山県の出身です。~ヒコサチ:忌部氏(彦幸)~和歌山・名草→ヒコユキ
・武内宿祢の妻は宇乃媛(紀伊国造宇豆彦の娘)とされていますが、紀伊国造:宇豆彦(うずひこ)はウツシコオです。~第84話:うず彦(椎根津彦) ~浦島太郎
・武内宿祢の弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)の「ウマシ」はク活用・シク活用の両用があるため、「ウマシウチ」と読みうる (新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)→ウマシチはウマシマジ(宇摩志麻遅命)~ウマシマジは台与!
関連項目:武内宿禰はウツシコオ!!
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
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