天武天皇は台与(4)~吉野
- tootake
- 8月3日
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更新日:8月13日
第763話
天智天皇は病を発し、いよいよ深くなった天智10年に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとします。しかし大海人皇子(後の天武天皇)は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ります。吉野では鸕野讃良皇女(後の持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女孺とともに住んだとされています。
吉野は実はとんでもなく辺鄙な場所です。大阪からは上本町で近鉄電車に乗って行くのですが、特急に乗っても2時間以上かかります。なぜこんな辺鄙な場所に大海人皇子は行ったのでしょう。
吉野一帯は、役行者*(えんのぎょうじゃ)が開いたとされる修験道の中心地で、金剛蔵王大権現を感得した場所として知られています。役行者は、山上ヶ岳での一千日間の参籠修行の末、忿怒の姿で現れた金剛蔵王大権現をヤマザクラに刻み、吉野山と山上ヶ岳に祀ったことが金峯山寺の始まりとされています。*役行者はウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。~第475話:役の行者(役 小角)と韓国広足
また、この地域は、丹生信仰を残す地として、和歌山県の高野山近辺には、丹生都比売神社(にゅうつ姫神社:かつらぎ町天野)と、特に吉野には持統天皇がしばしば行幸しているのは名高いことです。丹生都比売は、台与です。~第616話:鉱物資源と邪馬台国14~弥都波能売神(みずはのめ)
日本書紀・続日本紀によると、持統天皇は690年(朱鳥元年)から697年(持統元年)にかけて、計31回もの吉野行幸を行っています。
「日本書紀」には、吉野に応神天皇から元正天皇に至るまで多数の離宮(行幸のための皇室施設)が置かれ、持統天皇もここを行幸先としたと記されています。
奈良県吉野郡東吉野村にある丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)の社伝に因れば、この地は神武天皇が東征の際に、天神の教示により天神地祇を祀り、戦勝を占った地です。具体的には、神武は天香具山の土で作った平瓮と厳瓮を川に沈めさせ、椎根津彥*に川魚の様子を観察させ、丹(水銀)の鉱脈があることを知り、500の真榊で諸神を祀り、国を平定することにした場所です。いわゆる「朝原」伝承地です。「朝原」とは、日本書紀、古事記に記される神武天皇東征神話中の地名「丹生川の朝原」を指し、神武軍が当地で雨乞いや突破策を講じた重要な舞台として伝承されている場所です。地元の丹生川上神社三社(上社・中社・下社)には、この「朝原」をしのぶ伝承や神事が今も伝えられています。
このエピソードは、第73話:鬼道はサイエンス ~古代天皇は技術者&ビジネスマン
で、すでに書いています。*椎根津彥はウツシコオです。~塩土老翁~浦島太郎2塩土老翁~浦島太郎2
まとめますと、
・吉野は鸕野讃良皇女(後の持統天皇)と関連の深い場所である。
鸕野讃良皇女は台与です。
~第546話: 鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)
第588話:持統天皇(第41代)~高天原は交野市
・大海人皇子(天武天皇)も神武天皇も吉野と関連があります。
神武天皇は孔舎衛坂(くさえのさか)で長髄彦(ナガスネヒコ)と戦いますが、敗れてしまいます。その敗北を受けて、神武天皇は「正面突破ではなく、南から迂回して大和に入る」作戦に切り替ええます。この迂回ルートの途中で、吉野に立ち寄っています。
このエピソードは、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が吉野へ行くのと同じ発想で書かれています。
神武天皇も、天武天皇も台与です。~第566話:神武天皇
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<追記>
天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇です。真人という名が入っています。
真人は、息長氏と関係のある名前です。天武天皇は、豪族を新たに八種にランクづける八色の姓を制定し、息長氏はその最高位の「真人」を賜っています。~第403話:伊福部氏と息長氏
息長氏と朱が結びつく、決定的な証拠は、息長真人の同族として息長丹生真人が記載されていることです。息長氏のうち丹生(朱)に関わる仕事をしていた人たち、あるいは丹生という土地に居住する息長氏という意味に解されます。~蒲池明弘著「邪馬台国は朱の王国だった」p175
<天武天皇は台与>
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>

反正天皇(第18代)は、、、
三ツ石神社 - Wikipedia
<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)
https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇
https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??
https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山
hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 敏達天皇は台与(豊)
衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!
孝昭天皇は台与:日原は目原 飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ 大宜都比売(おおげつひめ)は台与
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 神八耳命は台与(豊)
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与
山部赤人は台与! 八幡神は台与!!
とよ(乎止与命・台与・臺與) 台与の物語