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金剛組と天王寺

  • tootake
  • 3 時間前
  • 読了時間: 6分

第880話


金剛組は、世界最古の企業です。創業は、聖徳太子の時代までさかのぼり寺院建設のために設立された大工集団です。


聖徳太子は四天王寺を建立するため578年に朝鮮半島の百済から「金剛」「早水」「永路」という3人の工匠を日本に招聘しました。その一人「金剛」が金剛組初代の金剛重光です。当時の日本には本格的な寺院を建築できる技術者がいなかったため、仏教の先進国であった百済から技術者を呼び寄せたのです。金剛組は、近世に至るまで四天王寺お抱えの宮大工です。


ところでこのブログでは、聖徳太子は台与としています。

 ~第540話:広隆寺と聖徳太子立像

そして、第478話:天王寺の亀と酒船石 で書いたように、四天王寺が推古朝以前にはすでに存在したことは考古学的にも確認されています。


四天王寺縁起によりますと、当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造(JR森ノ宮駅付近)の岸上にあったとようです。鵲森宮(カササギ)の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしています。

鵲森宮(かささぎもりのみや)の鵲は台与を表していると私は思っています。鳥類は台与のキーワードです。また近くの桜宮(櫻宮:さくらのみや:大阪市都島区中野町)の祭神は、天照大御神、八幡大神、仁徳天皇です。八幡大神、仁徳天皇もこのブログでは台与としています。~第472話:八幡神は台与!! 第582話:仁徳天皇(第16代)


現在の大阪市東淀川区里の東部は、かつて西成郡天王寺庄村です。四天王寺の建立予定地であったという伝承もあります。豊里については、第452話:高瀬の渡しで書いたように台与(トヨ:豊)の拠点地です。

そして、天王寺といえば亀の池です。亀井堂の堂内に亀形石があり、金堂の基壇下にあるという青竜池から湧いている「白石玉出の清水」をここに通して経木流しを行う場としています。2019年(令和元年)に初の亀形石の学術調査が元興寺文化財研究所により実施され「国家的管理のもとで水祭祀が行われていた」可能性を指摘しています。酒船石遺跡の亀型石造物と年代や規模、構造がほぼ一致し、酒船石遺跡の亀形石より亀井堂のほうが忠実に亀を表現していると指摘されています。


なお、酒船石遺跡は、第477話で書きました斉明天皇の狂心渠(たわむれごころのみぞ)との関連が指摘されています。酒船石遺跡は斉明期に最初に造られその後、天武・持統朝まで継続的に使用され、平安時代まで約250年間使用された形跡があり、何らかの天皇祭祀が行われた遺構と推定されています。斉明天皇は台与です。参照:第477話:狂心渠(たわむれごころのみぞ)


1992年(平成4年)には、酒船石の丘陵で飛鳥時代の石垣が発見されました。

この石垣の下部には明日香産の花崗岩が基礎として並べられ、その上に今復元され見えている切石(天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細粒砂岩)が積み上げられて築かれています。また、その後の発掘調査により、この石垣は、酒船石の置かれる丘陵を取り囲むように数段にわたって造られていたことも分かっています。

そして、丘陵の上部が平らに削られ、低い部分に土を層状に積み重ね、突き固める版築という大規模な工事が行われていたことも明らかにされています。

つまり、この丘陵は、人工的に盛土(場所によっては3m程度の盛土とも)を加えながら造成し、石垣が積まれた丘ということになります。


この発掘から、日本書紀:斉明天皇条の「宮の東の山に石を累ねて垣とす」「石の山丘を作る」という記事に該当する遺跡である可能性が強くなっています。


<まとめ>

・天王寺は、酒船石遺跡と関連がある。

・聖徳太子も斉明天皇も台与である。

・酒船石遺跡には石垣が築かれていることから、金剛組は、穴太衆と同一の集団(=土蜘蛛)であった可能性がある。


<金剛組の歴史>

593年、四天王寺創建。

四天王寺を築いた工法は現代も金剛組「組み上げ工法」に生きている。

1576年、織田信長の焼き討ちにより四天王寺焼失。

16世紀にかけて、大坂城建設に携わったと伝えられる。

1614年の大坂冬の陣で再び四天王寺焼失。四天王寺は戦火や自然災害のため7度の焼失と再建をくり返すがその都度、歴代の金剛組が再興に取り組んだ。

1868年、四天王寺、寺領を失う。金剛組は四天王寺からの禄を受け取れなくなる。

1903年、大鐘楼の建立。

1934年、室戸台風で四天王寺五重塔が倒壊。第38代棟梁で歴代初の女棟梁のもとで金剛組が再建を果たす。~金剛組 - Wikipedia


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今回も、日本の歴史で、大規模な土木工事を行った人物を調べるシリーズです。

日本の古代史で大規模な土木工事を行ったのは、秦氏です。

秦氏の行った土木工事については、

第807話:邪馬台国と栗隈大溝(くりくまのおおうなで)などで書いています。


近畿には、淀屋、安井道頓、金剛組、穴太衆など大規模な土木工事を行った人達がいます。

これらの人物は、秦氏、三島溝咋耳の技術を受け継いだ人たちではないでしょう。

三島溝咋耳(みしまみぞくいみみ)の「溝咋」とは文字通り「溝を掘削するという意味です。


関連項目:第879話:穴太衆と邪馬台国

    :第878話:淀屋と三島溝咋耳

    :第877話:道頓堀と三島溝咋耳 

    :第876話:太田 道灌と三島溝咋耳


これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれている13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





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2件のコメント

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tootake
2時間前
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