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天王寺の亀と酒船石

更新日:10月22日

第478話  #台与 #聖徳太子 #四天王寺 #酒船石遺跡 #亀形石


天王寺は大阪市天王寺区四天王寺にあり、正式な名称は荒陵山金光明四天王大護國寺です。難波大寺、堀江寺*ともいいます。大阪の人は誰も四天王寺などとは呼ばず「てんおうじはん」と呼びます。日本書紀によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたといいます。*堀江~第344話:聖徳太子伝説~堀江と茨田堤


四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。 四天王寺の草創については日本書紀では崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生し、聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は、戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をしました。崇仏派の蘇我氏の勝利がしたため、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかったといことになっています。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数ありますが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみです。*厩戸皇子(当時14歳)は13歳で即位した台与です。第342話:聖徳太子は菟道稚郎子?! 第344話:聖徳太子伝説~堀江と茨田堤


四天王寺が推古朝以前にはすでに存在したことは考古学的にも確認されています。

四天王寺縁起によりますと、当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造(JR森ノ宮駅付近)の岸上にあったとようです。鵲森宮(カササギ)の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしています。


また、天王寺の建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(鵲森宮が難波の守屋の宅跡)に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされています。現在は四天王寺の境内には守屋祠があります。


鵲森宮(かささぎもりのみや)の鵲は台与を表していると私は思っています。鳥類は台与のキーワードです。また近くの桜宮(櫻宮:さくらのみや:大阪市都島区中野町)の祭神は、天照大御神、八幡大神、仁徳天皇です。八幡大神、仁徳天皇はこのブログでは台与としています。第472話:八幡神は台与!! 桜は左近の桜で台与です。右近の橘は、非時香菓(ときじくのかくのみ)すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国(魏)に派遣されました田道間守(タジマモリ=ウツシコオ)でしょう。アメノヒボコはウツシコオ~投馬国


現在の大阪市東淀川区里の東部は、かつて西成郡天王寺庄村です。四天王寺の建立予定地であったという伝承もあります。豊里については、第452話:高瀬の渡しで書いたように台与(トヨ:豊)の拠点地です。


そして、天王寺といえば亀の池です。亀井堂の堂内に亀形石があり、金堂の基壇下にあるという青竜池から湧いている「白石玉出の清水」をここに通して経木流しを行う場としています。2019年(令和元年)に初の亀形石の学術調査が元興寺文化財研究所により実施され「国家的管理のもとで水祭祀が行われていた」可能性を指摘しています。酒船石遺跡の亀型石造物と年代や規模、構造がほぼ一致し、酒船石遺跡の亀形石より亀井堂のほうが忠実に亀を表現していると指摘されています。


なお、酒船石遺跡は、前回、書きました斉明天皇の狂心渠(たわむれごころのみぞ)との関連が指摘されています。酒船石遺跡は斉明期に最初に造られその後、天武・持統朝まで継続的に使用され、平安時代まで約250年間使用された形跡があり、何らかの天皇祭祀が行われた遺構と推定されています。斉明天皇は台与です。参照:第477話:狂心渠(たわむれごころのみぞ)


仁徳天皇の高津宮(たかつのみや)はどこに置かれたかは江戸時代より諸説があります。

仁徳天皇は台与(トヨ:豊)です。第132話:仁徳天皇も架空の天皇!!

天王寺が高津宮でだと思います。


聖徳太子は、秦氏の儕輩(同志)とされています。秦氏(秦河勝)は、聖徳太子信仰の担い手になっていったとされています。四天王寺と秦氏の関係については、建穂寺が秦氏の氏寺として白鳳13年(684)に建立された寺院で、四天王寺舞楽が秦河勝の子孫が掌ったといわれている伝承もあります。秦河勝は慈善事業制度(四箇院)の設置に関わったとされています。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つのことで、敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたります。第462話:秦河勝:摩多羅神はウツシコオ!


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 22
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 22
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崇神天皇7年、大々杼名黒に対して「お前の家に祀る国平大神と建御雷男命は、同殿同床にするのは恐れ多いため、別に神殿を造って鎮祭せよ」との詔が降った。そこで、新たに社殿を建ててこれを祀り、建御雷男命を「楯之御前社」、国平の鉾を「鉾之御前社」と称した。同8年9月2日に遷宮式を行い、同10年に神領地を、南は多治比、北は浪速、東は味原までと定めた。後に大々杼名黒は亡くなり、「山背墓」に葬られた。


丹比郡(たじひのこおり、歴史的仮名遣い:たぢひのこほり)は、かつて河内国にあったである。

現在の松原市大阪狭山市堺市東区・堺市美原区の各全域と、大阪市東住吉区・大阪市平野区八尾市藤井寺市羽曳野市・堺市北区の各一部に相当する。


味原町(あじはらちょう)は、大阪府大阪市天王寺区にある町名。丁番を持たない単独町名である。


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