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邪馬台国の水軍(4):彦狭島命と建借間命

  • tootake
  • 2 日前
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更新日:2 日前

第777話 #建借馬命


彦狭嶋命は、重要な海洋交通路である狭嶋を支配下に置いていたことから、南方刀美神(タケミナカタ)と同一人物であるとされています。また彦狭嶋命は瀬戸内海の覇者で、四国側では彦狭嶋命、岡山(吉備)側では吉備津彦と呼ばれていたとされるのは、「神武天皇と卑弥呼の時代」の著者である佐藤洋太氏です。p110


このブログでは、第371話:彦狭島命~吉備児島彦狭島命はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王としていましたが、今回再検討してみます。

彦狭島命(ひこさしまのみこと)は、吉備児島や瀬戸内海の海域支配と関係が深いとされます。一方、村上水軍は中世〜戦国期に瀬戸内海を支配した海の武士団。両者の間には直接的な史料的関係は乏しいものの、象徴的・系譜的・地理的な接点がいくつか見られます。


・瀬戸内海の覇者

彦狭島命は、古事記、日本書紀に登場し、吉備児島(岡山県南部)を拠点とする海人族の祖とされることがあります。村上水軍は、因島・能島・来島など瀬戸内海の島々を拠点に活動し、瀬戸内海の航路支配者として知られました。両者ともに、瀬戸内海の潮流・島嶼地形を熟知した海民的存在であり、地理的な連続性が見られます。


一部の伝承では、彦狭島命は孝霊天皇の子であり、越智氏の祖とされます。

村上水軍は、伊予越智氏の庶流である可能性が指摘されており、能島村上氏や因島村上氏の系図には、村上源氏(村上天皇の皇子の子孫)を祖とする説とともに、越智氏との関係も記されています。つまり、彦狭島命 → 越智氏 → 村上水軍という系譜的な流れが、伝承上では構築されている可能性があります。


彦狭島命は、海神族・航海の守護神的存在として語られることがあり、スサノオや椎根津彦などと同一視されることもあります。村上水軍は、大山祇神(おおやまづみのかみ)を氏神とする越智氏の信仰圏に属しており、大三島の大山祇神社との関係が深い。

能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としています。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されており、信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定村上姓を名乗ったとする伝説が伝わっています。しかし、伊予越智(おち)氏の庶流との説もあります。

大山祇神は「和多志(わたし)=渡し=船」に通じる神格であり、海上交通と信仰が融合した象徴的存在です。~第392話:村上水軍と越智氏


彦狭島命は、村上水軍の直接的な祖先ではないにせよ、瀬戸内海の海人文化・信仰・地理的支配の原型を体現する神話的存在と位置づけることができます。村上水軍はその後継者として、実践的な海上支配と軍事力を担った集団であり、両者は象徴的・文化的な系譜でつながっていると考えることができます。


常陸国風土記:行方郡の条に、「寿神天皇(崇神天皇と同一視される)二年、東国の荒ぶる賊の平定に建借間命が遣わされた」と記載があります。風土記では当初「建借馬命(たてかしまのみこと)」とした表記が後補写本や伝承で「建借間命」と定められました。

茨城県の水戸は、大和朝廷から国家統一のため東国に建借間命(たけかしまのみこと)が派遣されてきたことにの始まるとされています。建借間命は軍船を率いて霞ヶ浦に入り、鹿島・行方地方、さらに那珂川*流域一帯を切り開いたので、朝廷から那賀(仲)国造に任命されました。那賀国は、当初いまの水戸市飯富付近を根拠としたとみられ、これが現在の水戸です。


この建借間命の借間(かしま)は「鹿島」であり、鹿島神宮の祭神の建甕槌(タケミカヅチ)との関連が推測されます。建甕槌は、常陸国鹿島の神と同名で、「彦狭島」の「狭島」が「鹿島」と同義であることされています。


このブログでは第441話:タケミカヅチは台与!!としています。

彦狭島命=建借間命=建甕槌(タケミカヅチ)=台与となりますので、彦狭島命は台与となります。建借間命は軍船を率いてとありますので、建借間命=台与は水軍の長(おさ)でもあったのです。


水戸市にある大井神社 の境内説明板によると、建借馬命の出身が神八井耳命を祖とすると書かれています。そのため大井神社 の「大井」は意富臣(おふのおみ)であることによるともされています。神八耳命は台与(豊)です。


*那珂川、那賀国は、第768話:長髄彦と粉河寺~那賀郡で書いた徳島県の那珂川と同じです。「謎の四世紀」p162より引用。

「この付近、特に粉河寺のあたりは、丹生にかかわる地名、丹生都比売(ニュウツ姫)を祀る神社がいくつもある。おそらくは、この那賀郡の地名は、弥生時代における水銀朱の大産地であった徳島県の若杉山遺跡、その水銀朱の搬出ルートであった那珂川の「那賀:ナカ」と呼んで由来するのだろう。粟の国の那賀の人が移住して、やはり水銀朱の採掘にあたっていた場所、それが、紀伊の国の那賀である。」

長髄彦=ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王は、香取神宮の経津主大神(フツヌシ)です。


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<追記>

・寿神天皇(崇神天皇)の命令で建借馬命は東国(関東)に赴きます。

・ヤマトタケル(日本武尊)は、景行天皇の命令で東方の蛮族の討伐に向かいます。

豊城入彦命は崇神天皇の命令で、東に向かい武器を振るったので東国に派遣されたます。

・豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)という彦狭島王と名前が良く似た人物は初代上毛国造とされています。


台与が東国関東で、様々な活躍をしてきたことは、このブログで書いてきました。


これらのことにより、建借馬命=彦狭島(王)=ヤマトタケル=豊城入彦=台与であることは明白です。崇神天皇、景行天皇も台与です。


 関連項目:第392話:村上水軍と越智氏

     :第776話:邪馬台国の水軍(3):因支氏と讃留霊王

     :第775話:邪馬台国の水軍(2):津守氏

     :第774話:邪馬台国の水軍(1):阿万氏

     :第773話:阿万(あま)氏と西都原伊古墳群

    

※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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