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王仁(わに):千字文の嘘(1)

  • tootake
  • 8月23日
  • 読了時間: 6分

更新日:2 日前

第783話 #阿直岐 #道稚郎子 #台与


王仁(わに)は、応神天皇の時代に百済から日本に渡来した百済人で、千字文と論語を伝えたと記紀に記述される伝承上の人物です。日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師*(わにきし)と表記されています。西文首(かわちのふみのおびと)の祖とされています。


王仁に関するもっとも詳細な記述は、日本書紀のものであり、百済人の使者阿直岐(あちき)を介して来朝したといいます。日本書紀の記事ついて笠原一男は、「まず儒教についてだが日本書紀には応神天皇の時代に百済から伝わったと記してある。しかし、漢字はすでに奴国王金印でも知られ、五世紀には刀剣銘文にも用いられているのだから、この記述は王仁を始祖とする西文氏の起源伝承とみるべきだろう。儒教伝来については注目したいことがいろいろある。一つはそれが百済から伝えられたことだ。六世紀の日本は中国との直接交渉がなく、百済を通じて中国南朝の文化を導入したのである」と指摘しています。


日本書紀:巻第十、応神紀には次のような記事があります。

十五年の秋八月六日に、百済王は、阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。そのまま軽かるの坂上さかのうえの厩うまやで飼わせた。それを阿直岐に管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂という。阿直岐はまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は学問の師とされた。天皇は、阿直岐に尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁(わに)という者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで王仁を呼び寄せなさった。


姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解もあるがあくまでも学者の推測であり、その実在性を疑問視する説も多数存在します。


和邇吉師(王仁)によって、千字文、すなわち漢字が伝えられたとされていますが、千字文は和邇吉師(王仁)の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられています。王仁が渡来したのが五世紀以前の百済からとする一方で、千字文の成立が六世紀前半です。


第553話:阿自岐神社~滋賀県豊郷町安食では、下記のように書きました。

阿直岐(あちき)は菟道稚郎子の家庭教師とされています。

・百済王が馬2匹を阿知吉師(あちのおみ)につけて貢上したとあります。

台与=聖徳太子と馬との関係については、第546話:鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ) 第719話:富士山と台与で書きました。

・聖徳太子は聖徳太子は菟道稚郎子です。聖徳太子=菟道稚郎子=台与です。


王仁(わに)も千字文(漢字)の伝来も記紀の津切話です。


阿智氏は、日本古代氏族事典では、井上姓と通じていて、阿智使主の後裔伝承を持ち、その名は河内国志紀郡井於郷の地名にもとづくという説もあります。

河内国志紀郡井於郷とは、大阪府茨木市蔵内のことです。第689話:阿智氏・阿直岐は、、、


阿智氏は元々は、河内国志紀郡井於郷(大阪府茨木市)の出身です。第688話磯城(しき)は磯嶋(いそしま:枚方市)で磯城(志紀)は枚方市としました。河内国志紀郡とは北河内の事でしょう。大阪府茨木市の井於神社の近くに、五十鈴、天王という地名があります。五十鈴は五十鈴姫で台与です。天王はスサノオ(津田の王のことです。


阿智氏は、台与の一族のこと です。台与は13歳で即位したヤマト(邪馬台国)の大王です。


辰孫王というという人物が、百済から渡来して西(河内)文(ふみ)氏の祖になったとされていますが、この人物が王仁ではないかともされており、その王仁(おうじん)とは応神(おうじん)天皇のことではないかという説もあります。「日本古代史と朝鮮」金辰寿著 P84


能「難波(古名:難波梅)」では、王仁は「おうにん」と読まれています。


大朝鮮帝国史の作家金珊瑚は画集「韓国105代天皇尊影集」で、応神天皇を「倭(奈良百済)国 始祖 応神王仁」と紹介しています。高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇は、そこで奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国を支配していたと主張しており、 「応神王仁」とは、日本に「千字文」を伝えた王仁博士の「王仁」と応神天皇の「応神」は、どちらも日本語で「オージン」と読めるから同一人物に違いないと主張しています。


このブログでは、応神天皇は台与としています。~第581話:応神天皇(第15代)は台与 第758話:昆支王(こにきし)は、応神天皇(台与)


*和邇吉師の「吉師(きし)」は、岸部の「岸」です。岸辺も台与と関係の深い地です。




<まとめ>

・王仁(わに)は架空の人物である。

・王仁が日本に漢字を伝えたというのは、嘘である。

阿直岐(あちき)=菟道稚郎子=台与である。

・王仁は応神天皇=台与である。

                  次回に続く→王仁(2):伝王仁墓


関連項目:第130話:王仁(わに)~邪馬台国異聞5


これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>



  博士王仁之墓と自然石 王仁 - Wikipedia

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