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昆支王(こにきし)は、応神天皇(台与)

  • tootake
  • 7月29日
  • 読了時間: 6分

第758話 #誉田天皇 #台与 #邪馬台国


昆支王は、応神天皇であるとされるのは、「聖徳太子はいなかった」の著者 石渡信一郎氏です。P101


昆支王(こんきおう)は、百済の王族で、三国史記によれば、第21代蓋鹵王の子で22代文周王の弟であり、24代東城王の父とされています。日本書紀では、昆伎、昆枝、崑枝、崑支、軍君(こにきし)と表記されています。日本書紀によると、雄略天皇5年(461年)、日本に人質として日本に送られたされています。新撰姓氏録では、飛鳥戸氏の祖とされ、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神として祀られています。


応神天皇の日本書紀の名前は、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)です。「ほむた」は「こんだ」と読みます。「こんだ」は昆支(こにきし)で、日本書紀では、コムキ、コンキ、コニキなどと読まれていますが。「コ」と「ホ」と交替すると「昆」は「ホン・ホム」などとも呼ばれたと考えられます。石渡信一郎氏の説では、ホムタ=ホムツ=ホムチということで、昆支はホムタとなるそうです。~「聖徳太子はいなかった」P110~P113


ところで、百済王氏(くだらのこにきしうじ)という人物がいます。

百済王氏(くだらのこにきしうじ)は、百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。「こにきし」は、古代朝鮮の三韓のを指す言葉であり、古代朝鮮語に由来すると考えられています。

「こにきし」の漢字表記は「王」です。昆支(こにきし)とは別人とされています。


AIに昆支王と百済王氏について書いてもらいました。

百済王氏(くだらのこにきしうじ)と昆支王(こんきおう)は、血統的にも政治的にも深く結びついた存在です。以下にその関係を整理してみます。

🏯 昆支王とは誰か?

  • 昆支王は百済第21代蓋鹵王(がいろおう)の弟または子とされる王族で、『日本書紀』では「軍君(こにきし)」とも記されています。

  • 雄略天皇5年(461年)に人質として日本に派遣され、筑紫の加唐島で男児(嶋君=後の武寧王)をもうけたと伝えられています。

  • 百済が高句麗に攻められた475年以降、王族の避難や再編が進む中、昆支王は倭国(日本)に留まり、百済王家の分脈を日本に築いたと考えられています。

🧬 百済王氏との関係

  • 百済王氏(くだらのこにきしうじ)は、昆支王の子孫を祖とする渡来系氏族で、後に「百済王」の姓を賜り、奈良時代には朝廷に仕えました。

  • 『新撰姓氏録』には「飛鳥戸造—出自百済国主比有王男昆伎王也」とあり、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に昆支王が祭神として祀られています。

  • 昆支王の子・末多王は百済に帰国して第24代東城王として即位し、さらにその子が武寧王となるなど、百済王家の本流にも影響を与えた人物です。


百済最後の国王・義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋と善光(扶余勇・禅広王・余禅広)を倭国に送った。日本に残った善光が百済王族の血統を伝えることとなります。


百済王善光(くだらのこにきし ぜんこう)は、百済最後の王・義慈王の王子であり、百済王氏の祖として日本に深く根を下ろした人物です。

  • 善光(禅広王)は、百済第31代義慈王の王子として誕生。

  • 舒明天皇3年(631年)、兄・豊璋王とともに人質として倭国(日本)に派遣され、宮廷に仕えるようになります。

  • 善光は664年(天智天皇3年)に難波(現在の大阪市北部)に土地を与えられ、亡命王族の拠点を築きました。この地は古代から外交・交易の要衝であり、百済王族にとっても文化的・政治的な活動の場となりました。

    難波の細工谷遺跡(大阪市天王寺区)では、「百済尼寺」と書かれた墨書土器が出土しており、善光ら百済王族がこの地に寺院を建立した痕跡と考えられています。


大阪府枚方市中宮西之町には、百済寺があり百済王(くだらのこにきし)が建てたとされています。枚方市中宮は私が邪馬台国の中心地で卑弥呼の宮(中宮:ちゅうぐう*)があったとする場所です。*中宮:「ちゅうぐう」とは妃(きさき:皇后)の宮という意味です。~第125話:邪馬台国前史Ⅸ~禁野・中宮・ヤマト


堀江で拾った阿弥陀如来像を長野県の善光寺に祀ったのは本田善幸とされています。善光寺の名は開祖の本田善光の名を取ったといわれています。しかし、古い善光寺縁起には本田善光という名が出てきません。本田善光の存在自体が創造であるとする説もあります。ではなぜ善光寺と名付けられたのかというと、百済王善光くだらのこにきし ぜんこう)からというものという説があります。~第683話:善光寺~本田善光は台与では、


国学者・大石千引は1820年の本で「天智天皇の時、難波に居を定められた百済王善光が善光寺の開基らしく、河内の誉田に住んで誉田(ほんだ・こんだ)善光とも言ったのだろう」と書いています。河内の誉田は、応神天皇陵(大阪府羽曳野市誉田)のある地です。応神天皇は台与です。第581話:応神天皇(第15代)は台与


上記により、私は昆支王(こにきし)=百済王(くだらのこにきしじ)=百済王善光=台与=応神天皇ではないかと思います。


なお、第476話:金華山と百済王敬福では、百済王敬福はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王としています。百済王敬福と百済王善光直系血縁関係(父子/兄弟など)文献上では、確認できず、少なくとも近い世代での親子関係は否定的です。しかし、百済王敬福がウツシコオなら、百済王善光は台与という可能性はあります。


  • 百済王氏は後に桓武天皇の生母・高野新笠の出自としても注目され、王族に連なる名門氏族として栄えます。


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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2件のコメント

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tootake
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tootake
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