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大神木神社と卑弥呼~吹田市山田

  • tootake
  • 3月29日
  • 読了時間: 6分

更新日:3月30日

第636話 #元伊勢 #卑弥呼 #天照大神


大阪府吹田市山田市場に大神木神社(だいしんぼくじんじゃ)があります。

創建は雄略天皇23年(501年頃)と伝えられています。別名は仮宮(豊受大神宮)です。

元伊勢伝承地の1つです。


神社の高札によると、今を去る二千有余年前、此の地に近在まれに見る大木があり、此の木を神木として崇め敬ひ人呼んで大神木神社と呼称すとあり、また 日本書紀によると今から凡そ二千昔 国中に災害疫病が起こり 国土が荒れ果てようとした時 第十代崇神天皇が宮中に祀られてあった皇大御神を倭の笠縫邑(かさぬいむら)に移し ここに(つまりこの大神木神社)に神*を神籬(ひもろぎ)に建て皇女の豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)を神の守りとして奉仕させとあります。*ここで言う神とは、天照大神=卑弥呼の事と思われます。


第633話:観音菩薩と台与(6)~佐井寺では雄略天皇の代に伊勢神宮斎宮である皇女・倭姫の示教によって岡本豊足彦(*下記)が五柱の皇大神を奉祀する地を探し求め、付近の小川谷(〒565-0821 大阪府吹田市山田東1丁目)の地に祀ったといいます。と書きました。これは、佐井寺=伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)の社伝でした。


大神木神社の社伝と佐井寺=伊射奈岐神社の社伝は、同じことを伝えています。

大神木神社(吹田市山田)と伊射奈岐神社(吹田市佐井寺)は、そんなに離れてはいません。しかも前回書いた金剛院大阪府摂津市千里丘)にも、近いのです。


元伊勢と呼ばれる神社は各地にありますが、この吹田市山田にある大神木神社と伊射奈岐神社のが一番最初の元伊勢では、だと思われます。というのも、この辺りは三島なのです。天王、五十鈴、玉櫛、丑寅などの地名が付近にはあります。天王はスサノオ、五十鈴は、玉櫛は卑弥呼です。この付近(三島)はこの三人の根拠地であったと思われます。


これらのことから、大神木神社を仮宮にしたのは、卑弥呼が亡くなった直後のことであったと考えられるます。仮宮が天照大神=卑弥呼を仮に祀った場所というのは、ここの卑弥呼の亡骸を一時期安置したということでしょう。


岡本足彦は台与(豊)と思われます。足(たらし)は旅→道の連想からスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)・台与の事です。~第335話:双体道祖神

岡本足彦の別名は大佐々之命・大佐々伎之命(おおささき)とされており、大鷦鷯尊(おほさざき)=仁徳天皇 つまり台与(豊)です。~第582話:仁徳天皇(第16代)


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<参考資料>~大神木神社 - Wikipedia


・大神木神社は、太陽の塔がある前の万国博覧会の会場近くで、古くは千里丘陵を「上之原」と呼ばれていましたが、仮宮での鎮座の折り当地を遷宮先の伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原に見立て*「山田ヶ原」と呼称し、これが現在に残る「山田」の地名となったとされています。後に嵯峨天皇がこの地を訪れた際に、淀川の流れを中国の千里の長江になぞらえ、この地を「愁うなかれ千里苦心多きを」と詩ったため、これ以降「山田ヶ原」一帯は「千里」と呼称されるようになったとのことです。

*伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原に見立てとあるのは、明らかに変です。伊勢は天照大神が最終的に行き着いた場所ですから、吹田市の山田の方が歴史的には古いのです。三重県伊勢市に宇治山田の地名もありますが、宇治はウチ(内)でウツシコオとの関連があると思われやはり、吹田市の山田の方が古い地名の筈です。


・大神木神社の社伝は、丹波の比沼の真名井に鎮座する豊受大神を伊勢の山田ヶ原へ遷宮する途中、この地に仮宮を建て年(ひととせ)余り鎮座したとしています。

*丹波の比沼の真名井とは、籠神社(京都府宮津市)ことです。籠神社も元伊勢で、ウツシコオと関連の深い場所です。~鶴と亀がすーべった:籠神社 、投馬国とウツシコオ~丹波(但馬)


・伊勢神宮内宮の天照大御神は、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられ、それまでは皇居内に祀られていましたが、その状態を畏怖した崇神天皇が皇女豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、さらに理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされています。

・山田郷土史「山田のあゆみ」【山田自治会郷土史編纂委員会 2001年】には「倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい場所を探す際に、上之山と呼ばれるところに一年ほど遷座し、その際に千里丘陵を「山田ヶ原」と呼んだのが「山田」という地名の起源とされる。」とあります。

また、第624話:大阪と邪馬台国:正雀(摂津市・吹田市)で書いた吉志部(きしべ)神社もこの近くです。山田郷土史の由来は、皇大神社(内宮)と豊受大神宮(外宮)がこの千里丘陵の地に存在した事を証明しています。


この尺谷の西隣には樫切山という地名があり、ここには樫の木の巨木を大勢の人数で伐ったと言い伝えがあります。この樫の木の巨木が大神木神社の神木だったのでしょう。吹田市の高浜神社の境内には「鶴の松」という大木の切株があり、その説明書きに「昔の境内は松の大木が沢山ありまして鶴が巣を作りましたが、太閤秀吉が大坂城を築城の時、用材として切りとられたとの伝説が残っており、おそらく大神木神社の巨木もこの時に大坂城の用材として伐採されたとのことです。


雄略天皇23年に天照大御神が雄略天皇の夢に現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(豊受大神)を近くに呼び寄せるように」との神勅がありましたと伝わっています。 神勅により丹波国の比沼の真名井に坐せる豊受大神を伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原へ遷す事となったのですが、遷宮の途中、摂津国三島郷大神木に仮宮を建て1年余り鎮座しました。この間当地にあった巨木を仮宮の御神木とし、豊受大神が去った後は大神木神社として奉祀したのが始まりとされています。

第415話:hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇では、豊受大神は崇神天皇=台与(豊)であるとしました。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






 
 
 

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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秀丸 遠嶽
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