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地名から読み解く邪馬台国


小野妹子 国書紛失事件
第921話 多利思比孤(タリシヒコ)5 日本書紀によれば、小野妹子(隋での名は蘇因高)は、推古天皇15年(607年)に通訳の鞍作福利らと共に大唐(当時の隋)に派遣されます。と呼称された妹子は、推古天皇16年(608年)4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国しますが、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告します。その罪は流刑に相当するものであったが、推古天皇によって恩赦され罪に問われませんでした。こののち妹子は冠位:大徳にまで昇進しています。この視点は、実は近年の歴史学でも重要な論点になっています。 日本書紀では、小野妹子は隋の返書を持ち帰った。しかし「紛失した」と報告した 理由は書かれていない。返書の内容も残っていない。 つまり、返書の実物は存在しない。にもかかわらず、日本書紀は「返書は確かにあった」と前提して叙述を進めます。 この小野妹子の国書紛失事件は、 隋書では、倭王は多利思比孤(タリシヒコ)となっていますが、日本書紀では、推古天皇(女性)が天皇となっている件と関係があると思われます。 これは、大和王権の外交的威信を高めるた
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1月8日読了時間: 5分
邪馬台国 第881話~第920話
第1話~第40話 第41話~第80話 第81~第120話 第120話~第160話 第160話~第200話 第201話~第280話 第281話~第320話 第321話~ 第360話 第361話~第400話 第401話~第440話 第441話~第480話 第481話~第520話 第521話~第560話 第561話~第600話 第601話~第640話 第641話~第680話 第681話~第720話 第721話~第760話 第761話~第800話 第801話~第840話 https://www.hidemaru3375.com/post/邪馬台国-第841話-第880話 邪馬台国地図別目次 邪馬台国 家系図 古代史 人名辞典 第881話: 欠史八代と磯城県主 第882話: 宰(みこともち)は、ウツシコオ(内色許男命) 第883話: 近つ飛鳥と遠つ飛鳥~同名地名の謎 第884話: 欠史八代:大間宿禰 第885話:
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1月7日読了時間: 3分


秦王国は大阪
第920話 多利思比孤(タリシヒコ)4 隋使いである裴清( 裴世清) の来訪経路は、 「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至 秦王國 」と書かれています。 百濟→竹島→耽羅國→斯麻國(対馬)→大海中→一支國(壱岐)→竹斯國(筑紫:九州)→ 秦王國 筑紫より東で、十餘國を経て海岸に達する国といえば、難波津(住吉)です。 ~ 第918話: 隋使派の嘘(2)裴世清と張政 「至」の最後が秦王国ですので、倭国の大王:アマタリシヒコの居所は秦王国ということになります。つまり隋書のいう秦王国とは、難波(大阪)ということです。 このブログでは、台与とウツシコオの一族は、秦氏でることは、度々書いてきました。 ~ 第459話: hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 そして「秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也」と書いてあります。 秦王国の人は夏)と同じ人で、なぜ、夷洲(異国人)というのか解らないというのです。 中国史書では、辰韓を秦韓とも書きます。隋書の「秦王国」という記述をこれに倣えば秦王国
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1月7日読了時間: 5分


東夷伝と用明天皇
第919話 多利思比孤(タリシヒコ)3 東夷伝 (とういでん)は、中国の史書で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれています。 新唐書』東夷伝(日本伝)が書かれた年代は、北宋の仁宗・嘉祐6年(西暦1060年) です。 新唐書の東夷伝には、次のように書かれています。 其王姓 阿每 氏,自言初主號 天御中主 ,至 彥瀲 ,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次 用明,亦曰目多利思比孤 ,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。 ・ 阿每 は、 倭王:アメノタラシヒコです阿毎・多利思比孤で、阿毎は「天」「大海」つまり ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) 、台与の
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1月6日読了時間: 5分


隋使派の嘘(2)裴世清と張政
第918話 前回: 遣隋使の嘘:アメノタラシヒコ では、 隋書のいう倭王:多利思比孤とは、ウツシコオのこととしました。そして、 隋使の裴世清は、魏志倭人伝をかいたとされる張政です。 この説をもう少し詳しく検証してみます。 隋使の裴世清の日本(倭国)での記録は、日本書紀と隋書にもあり、かなり詳細に記録されてます。隋使派遣の月日を隋書は記していませんが、日本書紀では推古16年(608 年)で4月に筑紫に着いたとあります。隋使は6月15日に難波津に到着し、 倭国側はこれを河口(江口)で飾船30艘の出迎えし隋使のために造営した新館に案内します。 隋使来訪の情報を聞 いた倭王は、これを迎える新館を造り始めさせ、隋使は筑紫着から1ヶ月以上かけて「又東 至秦王國(中略)又經十餘國 達於海岸」と、難波津に着岸し飾り船で出迎えを受け完成した新館に案内され、ここで倭王と対面したとは記述はありません。 実は、隋書は倭国の都の位置を明確に示していません。「海岸に着いて、既に彼の都に至った」あり、道程がここで 終っているためです。隋使(裴世清)が来日した 608...
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1月5日読了時間: 6分


遣隋使の嘘:アメノタラシヒコは、、
第917話 古事記、日本書紀の作者にとって隋書は、危険な文書です。なぜ危険かというと、隋書には記紀に書いてないことが書いてあるからです。 隋書のどの部分が日本書紀にとって“危険”だったのかを、検索結果の学術論文に基づいて整理すると、危険性は「内容そのもの」よりも「その内容が示す政治的意味」にありました。つまり、日本書紀の編纂者が隋書を十分に理解したうえで、意図的に削除・改変した箇所こそ“危険”だった部分です。 隋書では、倭王は多利思比孤(タリシヒコ)となっていますが、日本書紀では、推古天皇(女性)が天皇となっています。 倭王の実名はアメノタラシヒコです阿毎・多利思比孤 姓:阿毎、字:多利思比孤、号:阿輩雞彌(おおきみ=大王) 阿毎は「天」「大海」で、タラシヒコは「足彦」「帯彦」です。 第773話第773話: 阿万(あま)氏と西都原伊古墳群 なお推古天皇はこのブログでは台与(豊)です。 ~ 第587話: 推古天皇(第33代)は台与! 第571話: hidemaru3375.com/post/孝安天皇(第6代) では。足彦(たらし彦)はウツシコオ
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1月4日読了時間: 5分


辰王家(百済)と住吉神・安曇族
第916話 前回: 蘇我氏の真実(4)木羅斤資と昆支王 では、 木満致(木刕満致)が、木羅氏は馬韓系の辰王家門であると書きました。 ~ 木氏(木羅氏)は馬韓の「辰王家門」系とされる(李道学説) 辰王家門は、馬韓南部(栄山江下流域〜全羅道)に勢力基盤を持つとされる一族です。 木羅氏の本拠もこの南部圏に比定されることが多く、この地域は、海上交通(倭・伽耶)に直結する南の玄関口です。 今回問題としたいのは、辰王家門の祭祀(海神・水神)と倭国の海人系氏族(安曇氏・住吉系)との類似です。 辰王家門(馬韓南部の海上勢力)と、倭国の海人系氏族(安曇氏・住吉系)をつなぐ糸は、 「海の祭祀」+「渡海儀礼」+「王権の補佐」という三つの軸で立体的に絡み合っています。 辰王家門は、馬韓南部(栄山江下流〜全羅道)に根を持つ在地勢力で、その祭祀は明確に海・水・巫覡に結びついていたと考えられています。 • 海神・水神への祈祷 • 渡海の安全を祈る儀礼 • 巫女的シャーマンの強い役割 • 海上交通(倭・伽耶)を掌握するネットワーク つまり、辰王家門は、海を渡る王権」を支える儀礼
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1月3日読了時間: 5分


蘇我氏の真実(4)木羅斤資と昆支王
第915話 第913話: 蘇我氏の真実(2):蘇我 満智(そがのまち) では、 木満致=蘇我 満智がウツシコオある事を書きました。木満致(もくまんち)は百済将軍の木羅斤資(もくらこんし)の子とされています。 第758話: 昆支王(こにきし)は、応神天皇(台与) では、 昆支王(こんきおう)は台与としました。 それでは、木羅斤資(もくらこんし)と昆支王(こんきおう)の関係はどうなっているのでしょう。私の推論では、 木満致は、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) で、 昆支王は台与です。 結論から言うと、木羅斤資と昆支王に、直接的な血縁関係を示す史料はありません。 しかし、「百済王族とその側近(貴族)という政治的ペアとして行動した可能性」は、近年の研究で強く指摘されています。 1. 史料上の立場 ● 昆支王(扶餘昆支)- 百済・蓋鹵王の子(または弟)- 文周王の弟- 東城王・武寧王の父 - 461年に倭へ渡来(日本書紀) 475年の漢城陥落後、百済王族の中枢人物 - 飛鳥戸氏の祖とされる。 ● 木羅斤資(木羅氏)- 百
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1月2日読了時間: 5分


蘇我氏の真実(3):蘇我氏と秦氏・葛城氏
第914話 今回は、なぜ蘇我氏は“大臣”として台頭する以前から、王権の財政機構を掌握できたのかを考えてみます。 蘇我麻智 は、古語拾遺によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したといいます。つまり、蘇我氏は、5世紀後半には既に朝廷財政を統括していたと思われます。 当時の蘇我氏が王権のクラや財政と関係していたことは、古事記に見える宗賀之倉王(そがのくらのみこ、日本書紀では倉皇子)の存在からも推察できます。 古語拾遺に見える蘇我麻智の伝承は、蔵関係の伝承を語ることから、6・7世紀における蘇我氏の朝廷のクラ管掌という史実を遡らせ、蘇我氏の中でもクラを管掌した蘇我倉氏や、その末裔である石川氏によって作られた伝承であり、秦氏や蘇我倉山田石川麻呂(蘇我倉氏)の家伝に基づいて造作された可能性も指摘されています。 学界で最も重視されている説としては、渡来系氏族である秦氏・漢氏との強固なネットワークです。 5〜6世紀の財政・工業・土木・外交の実務は、秦氏・漢氏などの渡来系氏族が担っています
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2026年1月1日読了時間: 4分


蘇我氏の真実(2):蘇我 満智(そがのまち)
第913話 前回: 蘇我氏の真実(1) では蘇我氏の具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては、全く文献がありません。と書きました。 しかし、蘇我 満智(そがの まち)がいました。蘇我石川宿禰の子で、武内宿禰の孫にあた。蘇我韓子の父、蘇我稲目の曾祖父です。 蘇我 満智は、 履中天皇→反正天皇→允恭天皇→安康天皇→雄略天皇に仕えたとされています。 履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇が台与であることはすでに書いています。 第583話: 履中天皇(第17代)~大江 第584話: 反正天皇(第18代)は、、、 第585話: 允恭天皇(19代)~清寧天皇(第22代) この図式は、武内宿祢が 景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇に仕えたというのと同じです。景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇は台与です。 第578話: 景行天皇(第12代)と神夏磯姫 第579話: 印南別嬢(いなみのわきいらつめ) 第580話: 仲哀天皇(第14代)とトヨ(豊) *武内宿祢 ~ 第502話:
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2025年12月31日読了時間: 5分


蘇我氏の真実(1)
第912話 蘇我氏は謎の多い一族です。このブログは、邪馬台国を追及するブログです。もう900回を超えましたが、一度も蘇我氏については書いていないのです。なぜかというと蘇我氏に関しては、信頼できる資料がないからです。蘇我氏は、古事記、日本書紀が作り出した架空の氏族ではないのかと思い始めています。 古事記や日本書紀では、蘇我氏は武内宿禰を祖としています。武内宿祢は、このブログで何度も書いているように、 スサノオ(津田の王 ) = ウツシコオ(内色許男命) =難升米 です。~ 第502話: 武内宿禰はウツシコオ(2) 蘇我氏の具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては 、全く文献がありません。大阪府の石川流域、南河内郡河南町一須賀、葛城県(高市郡)、蘇我里(奈良県橿原市曾我町)を本拠としていた土着豪族であったとされています。 蘇我氏は大王家(皇族)との婚姻関係を通じて強大化した氏族とされ、蘇我氏と深く結びついた皇族(古代王族)には、下記のような人たちがいます。 🌸 推古天皇~ 蘇我馬子と協力して政治改革を進めた。~ 第
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2025年12月30日読了時間: 5分


清水寺と坂上田村麻呂
第911話 坂上田村麻呂は台与(2) 清水寺については、 第863話: 清水寺と地主神社 ですでに書いたのですが、前回: 呉服神社と坂上氏・阿智氏 を書いた際に、坂上田村麻呂の坂上氏が有名な神社の創建に関わっていると書きました。今回は、坂上田村麻呂と清水寺の関係を追及してみます。 宝亀11年(780年)に鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心という僧侶に出会います。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのですが、延鎮より殺生の罪を説かれて観音に帰依*し、観音像を祀るために自邸を本堂として寄進し、音羽の滝の清らかさにちなんで清水寺と名付けます。 *殺生の罪を説かれて観音に帰依というのは、 第856話: 行願寺と狩人 で、書いたように、 狩猟者改心のモチーフです。 狩猟者改心のモチーフの文化的意義は、殺生から慈悲への転換は、仏教の教義において、殺生は戒律に反する行為で、狩猟者が改心することで、仏教的価値観への転向が強調されます。とされていますが、 第557話: 御頭祭:鹿と神社...
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2025年12月29日読了時間: 5分


呉服神社と坂上氏・阿智氏
第910話 坂上田村麻呂は台与(1) 呉服神社(くれはじんじゃ)は、大阪府池田市室町にあります。 祭神は 、呉服大明神と仁徳天皇*で、仁徳天皇*の御代に没した呉服の祖神を祀っています。 呉服大明神 の遺体をおなじ池田市にある伊居太神社の梅室に、形見の三面神鏡をこの呉服神社の境内の姫室に納め、神祠を建てて 呉服神社 としたされています。「呉服」という言葉の由来は、この神社にあるとされています。 呉服大神は、日本最初機織裁縫の祖神です。 応神天皇*の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された阿知使主*と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の姉、呉服媛を猪名の港、現在の猪名川に架かる呉服橋と絹延橋の間にある唐船が淵に機殿(はたどの)を建てて迎えたとされています。 * 仁徳天皇は台与です。~ 第582話: 仁徳天皇(第16代) *応神天皇も台与です。~ 第581話: 応神天皇(第15代)は台 与 * 阿知使主~
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2025年12月28日読了時間: 5分


真舌媛:孝霊天皇妃は台与
第909話 三島は、私が邪馬台国とする地です。 私は三島郡三島町(現:大阪府茨木市・摂津市)の生まれです。 三島には「味舌」というところがあります。 孝霊天皇の后は、 大目の娘である細媛命で、別名は真舌媛です。日本書紀の孝霊紀に、后について、「一に云はく、 十市県主 等が祖が女:真舌媛(姫)といふ」とあります。 中世の味舌庄は、甘舌・真舌とも書かれ、淀川下流の有力な分流の1つである三国川に面し、対岸の地、鯵生(あじふ)野は、住吉大社神代記の「長柄船瀬本紀」にみえる、遣唐使船に荷物が積み込まれたという、長柄船瀬(港津)の地に比定されています。 味舌姫の父とされる十市県主の祖の「大目」です。三島から淀川をほんの少し下った所に「大日」という地名があります。大阪府守口市です。 第115話: 菊理媛神~大目は大日(守口市) では「大目」は「大日」のことであるとしました。 守口市の大日の近くには、 高瀬の渡し がありました。この付近は、淀川と大和川の水路が交わる要地で、出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、約二千年もの昔から祭祀が行われ
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2025年12月27日読了時間: 6分


日田(大分県)の伝説を検証する
第908話 前回: 石井源太夫・鳥羽宿禰は磐井=継体天皇 で書いた鳥羽宿禰=石井源太夫は、日田の国造です。 大分県に田島という地名があります。大分県日田市田島(〒877-0025) この田島の地名の由来は、豊西記によると、「石井源太夫高明公、当郡に下向き、来来里の着御あり。これによって村名としその後大原に館し昿田を開き」とあり、また豊後国志には鳥羽の宿禰が「日田国造となり刃連に住まい常に庶民に会す。以て耕の事を教え常に同居し、名づけて会所宮というのは是なり。」とあり、日田で初めて水田が開かれたことから田始播=田島と呼ばれるようになったとされています。 このブログでは、第486話: hidemaru3375.com/post/神武東征と稲作文化 では、稲作の伝播と神武東征関連付けました。 台与=ヤマトトモモソは農地の開拓を行ってきたことはこのブログで何度も述べています。 ヤマトトモモソ姫(=台与)は、農業・水路・文化の興隆を成したとされています。~ 倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 台与は食物の神です。~ 第435話: 大宜都比売(お
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2025年12月26日読了時間: 5分


石井源太夫・鳥羽宿禰は磐井=継体天皇
第907話 熊本県小国市「わいた温泉郷」の一つ「岳の湯温泉」にほど近い、杉木立の中に熱田神宮水源というところがあります。「中尾熱田神宮」の境内下で、鳥居へ上る階段をはさんで左右に池があり、その2カ所から清らかな水が湧き出している。かつては農作物に恵みをもたらす「神の水」と云われる水源です。ここの水は温泉郷が近いためか、水は22~28度と極めて高いのが特徴で、この水が水田に引かれていることが熱田の語源と推測されています。 熱田とは、熱田神宮の熱田です。名古屋市熱田区の熱田です。 大分県日田市にある石井神社があり、この神社の由来は、日田神社蒐集録によると、石井源太夫(いしいげんだゆう)いう人物が、八幡宮に祈願して、剣を大空に向かって投げ、落ちたところを社地と定めたといいます。また、この剣を投げ社地を定めた石井源太夫は尾張国の蓬莱島に宮地が有り、そこに祭られる尾張国造小 豊 命であるとも有ります。尾張国(愛知県)の熱田神宮、境内摂社の上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)は通称源太夫社と呼ばれ、祭神は、先代旧事本紀に尾張国造と記される乎止與命*です。...
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2025年12月25日読了時間: 5分


伊予湯岡碑:聖徳太子の嘘(2)
第906話 #道後温泉 #別府温泉 伊予湯岡碑(伊予道後温湯碑)は、かつて愛媛県松山市の道後温泉に存在したとされる飛鳥時代の碑文です。現在では所在は失われてしまっていますが、碑文は後世の引用史料によって知られており、聖徳太子の実在性を示す文書とされていました。原碑は、天武天皇13年(684年)10月の白鳳地震で埋もれたと推測する説があります。 法興六年十月、歳在丙辰、我 法王大王 与恵慈法師及 葛城臣 、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。~ 法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。 惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。 才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。...
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2025年12月24日読了時間: 7分


上宮記・薬師如来光背銘:聖徳太子の嘘
第905話 上宮記は、7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書です。日本書紀や古事記よりも成立が古いとされています。釈日本紀:巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、古事記・日本書紀の欠を補う史料として研究上の価値が高いとされていますが、その内容は疑わしいのです。「上宮」とは厩戸皇子が幼少・青年期を過ごした宮(奈良県桜井市)のことです。 上宮記の内容の信憑性を疑う研究者は多数です。 ・関根淳氏は、上宮記は山背大兄王が自らの権威づけのために聖徳太子を賞賛した史書を作成させたものとし、その注は太子信仰を生み出し続けた法隆寺の僧侶が書いたものであると推定しています。 ・井上光貞氏は、上宮記は七世紀の宮廷での創作ではないかとしておられます。 ・山尾幸久氏は、上宮記逸文の原史料は、推古朝まで遡るのは難しく七世紀末か八世紀初めに書かれたと見ておられます。 ・堀大介氏は、上宮記は古事記、日本書紀の、あとから書かれたのではないかと考えておられます。 ・井上光貞氏、山尾幸久氏は、七世紀から八世紀にかけて造作されたものと指摘しておられます。 ・堀大介氏は、上宮記の
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2025年12月23日読了時間: 5分


丸岡と継体天皇~福井県坂井市
第904話 國神神社(くにがみじんじゃ)は、福井県坂井市丸岡町にあります。丸岡城の近くです。 國神(くにがみ)神社は、男大迹王(おほどのきみ:後の継体天皇)と倭媛(やまとひめ)の皇子である椀子皇子(まるこのおうじ)を祭神として祀っています。社伝では、椀子皇子が武烈天皇8年に、磨留古乎加(まるこのおか:丸岡城がある丘)に 降誕 され、その胞衣(えな)を埋めて神明社としたのが創建と伝えられていて、磨留古乎加という地名は皇子の名前と丸岡の地名の由来となっています。 このブログでは、男大迹王(継体天皇)は台与としています。 継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社 継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) * 胞衣 にくるまれて 降誕 したのは、瓊瓊杵尊(ニニギ~台与)です。 ~ 第436話: 瓊瓊杵尊:ニニギは台与 日本書紀によれば、近江国高島郡三尾に住んでいた 彦主人王* (ひこうしおう)は、越の坂名井(さかない)から振媛(ふりひめ)を妻として迎え、振媛は、後の継体天皇である男大迹王(おおどおう)を生みましたが、まもなくし
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2025年12月22日読了時間: 5分


鹿島流し:タケミカヅチ
第903話 鹿島送りは、東日本の各地にみられる人形送りの民俗で、秋田県では虫送りの行事が「鹿島送り」、「鹿島流し」と呼ばれています。春から夏にかけて、生活に害をなすものを追い出す伝統行事の1つです。一般的に稲藁でできた鹿島人形を鹿島舟に乗せ、町内を回ってお祓いをしてから川に流すというものです。伝統行事としては害虫を駆除し豊作を祈願する虫送りに分類され、秋田県内では6月第4週~9月第2週くらいの期間に男鹿市、秋田市、大仙市、横手市、由利本荘市などで行われます。 鹿島様とは稲魂(うかみのたま)が宿り人々の生命力を高める霊力の備わる稲藁で作られた人型の道祖神で、秋田県内では湯沢市に6体、横手市に7体、美郷町に3体、仙北市に3体、大仙市に1体がそれぞれ設置されています。背の高さは3m~4mと巨大で、道祖神*の役割りもあるようです。 顔が稲藁で作られているものは秋田県南部に多く、顔が木で作られているものは秋田県中部、秋田県南部両方に見られます。 また大きな草鞋を吊るしたもの、絵馬のように仁王面だけものなど鹿島様はさまざまな姿で作られているのです。...
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2025年12月21日読了時間: 5分
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