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地名から読み解く邪馬台国


大和(やまと)地名の由来:水と土
第1112話 京阪電車に大和田(おおわだ)という駅があります。パナソニックの本社がある門真市駅の近くの駅です。もともと門真市を含む河内平野、大阪平野は淀川と大和川二つの川の水が流れ込む河内湖という巨大な湖でした。邪馬台国は河内湖という記事を書いたことがあります。~第922話:邪馬台国は河内湖:長柄船瀬 大和田の周辺には二つの川から運ばれる土砂が堆積し、砂州と沼地が混在する広大な沼沢地が出来ました。 大和田の「和田」は谷間の入野に比較してやや広い平地を意味しています。 大和田という地名は、川や海に面した地形に由来します。全国的に「ワダ」は川が蛇行してできた広い平らな土地や、水辺の地形を指すことが多く、それに「大きい」がついて「大きく広がった平坦な水辺の土地」という意味になったのが一般的な説です。が私は、「大」は尊称だと思います。 埼玉県見沼区に大和田町があります。大宮台地から急な崖(へり)を下りた先にあり、見沼周辺の比較的広い平坦な土地(和田)に由来します。 千葉県市川市(旧行徳町周辺)にも大和田という地名があります。江戸川放水路周辺に存在していた
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7月18日読了時間: 6分


河内馬飼 荒籠は、、、
第1111話 河内馬飼 荒籠(かわちのうまかいの あらこ)は、継体天皇の友人(知人)です。 暴君であった武烈天皇が崩御し、男女の子供もなかったため跡継ぎ途絶えたました。継体天皇(男大迹王:おおどおう)を新しい大王(天皇)として迎え入れようとします・しかし、継体天皇は心中、臣や連たち群臣のことを疑っており、新しい大王に即位することをすぐには承知しませんでした。しかし、大和政権の群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼:荒籠がおり、荒籠は密かに王に使者をおくり、朝廷の大臣・大連らが男大迹王を大和へ迎え入れる本意を詳細に王に説明させたといいます。使者は2日3晩かけて王を説得し、そのかいあって、王は大和へ向けて出発したといいます。継体天皇は、荒籠に対し、「おまえがいなかったら、私は世間の笑いものにされていたことだろう。貴賤ではなく、その子心を重んじることが大切だ、というのは荒籠のような人を指していうのだろう」と感心し、践祚してから荒籠を厚く寵遇するようになった、と日本書紀に書かれています。 日本書紀の履中天皇の条に、「河内飼部」という人物が登場しており、
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7月17日読了時間: 7分


聖徳太子と物部守屋は表裏一体
第1110話 #仏子勝鬘 #四天王寺御手印縁起 あまり知られていませんが、天王寺(四天王寺)には物部守屋を祀る社があります。 四天王寺に守屋祠(もりやのやしろ)があるのは、 「物部守屋の霊が四天王寺建立を“許し、助けた”と伝えられたため、 その霊を鎮め、感謝して祀ったから」です。 これは、丁未の乱で討たれた守屋を「怨霊」として恐れるだけでなく、 逆に守屋の霊が太子の願いを成就させたという、 神仏習合的で非常に日本的な和解の物語構造を持っています。 物部守屋は587年の丁未の乱で蘇我氏・聖徳太子側に討たれました。 四天王寺はその勝利の誓願に基づき建立された寺であり、 守屋の怨霊が伽藍を襲ったという伝承(啄木鳥の群となって襲来)もあります。このため、守屋の霊を鎮める必要があったと考えられます。 四天王寺の寺伝では、 聖徳太子が物部氏の土地・部民を使役して寺を建立した際、 「守屋公の霊がこれをお許しになり、さらにお助けになったので願いが成就した」 と語られています。そのため、守屋祠は 「願成就宮」 と呼ばれます。 四天王寺は日本最古の神仏習合寺
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7月16日読了時間: 6分


藤原京とおふさ観音
第1109話 藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都です。持統天皇により飛鳥京から遷都し、日本史上で初めて唐風の条坊制が用いられました。元明天皇により平城京に遷都されるまでの日本の首都でした。 日本書紀には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ/しんやくのみやこ)などの名で表記されています。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が藤原京考証という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、当時の皇居が日本書紀で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語です。 藤原(地域)とは、奈良県橿原市・明日香村・桜井市にまたがる古代日本の国家形成の中心地で、 飛鳥時代〜藤原京時代にかけて宮殿・寺院・古墳が集中した歴史的エリアのことです。特に橿原市の藤原宮跡周辺がその核で、大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)に囲まれた盆地中央部が「藤原」と呼ばれます。 日本書紀には、天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師(京/都)」に巡行
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7月15日読了時間: 6分


甘南備山(かんなびやま)と饒速日山
第1108話 #生駒山 甘南備山(かんなびやま)は、京都府京田辺市薪甘南備山にある独立峰です。山頂には神南備神社があります。山体の大部分は京田辺市に属していますが、西麓は私が邪馬台国とする大阪府枚方市尊延寺にかかっています。 甘南備山の「甘南備」とは、「神奈備(かんなび・かみなび)」であること明らかです。 神奈備とは、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のことです。または、神代(かみしろ)として自然環境を神体(しんたい)とし、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山、特徴的な岩や那智の滝のように滝がある神域などをさします。 住吉大社神代記には、胆駒・神南備山の四至の目印として、北の限りを「饒速日山」としています。胆駒は生駒山脈のことで、生駒山脈全体が聖なる神南備とされていたのです。 生駒山の主峰(642m)から一段低く続く北峯(583m)付近から峯下付近は、天降ったとされる饒速日命を祖神とする物部氏を祀る山であり、難波
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7月14日読了時間: 4分


笠縫邑は深江:大阪市東成区
第1107話 先日(2026.7.11)テレビで深江(大阪市東成区)の菅笠保存会を紹介していました。 菅笠は、スゲ(菅)の葉で編んだ笠で頭にかぶるものです。 昔、深江は良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でしたが、第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(かさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした一族が移住し、代々菅笠を作ったことから、笠縫島といわれるようになりました。笠縫島は、この深江付近と伝えられています。 「大阪はなれてはや玉造、笠を買うなら深江が名所、ヤットコセー、ヨーイナヤー」 伊勢音頭に歌われ、広く世に知られた名産深江の菅笠は、近世、伊勢参りが盛んになり、この道路が賑わいをみせて以来、参宮の旅人が皆ここで菅笠を道中用に買い求め、必ず携帯する習慣となりました。 「押し照るや 難波菅笠置きふるし 後(のち)は誰(た)か着ん 笠ならなくに」 「四極山(しはすやま) うち越しみれば笠縫の 島こぎかくる 棚なし小舟(おぶね)」 と万葉集にも詠まれています。 笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を
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7月13日読了時間: 6分


天孫氏~沖縄(琉球)
第1106話 原田常次郎著の「上代日本正史」の58ページに天太玉は奄美諸島から麻の種を持ってきたとあります。 第611話:鉱物資源と邪馬台国(9)天太玉命:水銀朱では、 大麻比古神社の社伝には、「天太玉命の御孫:天富命、勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め 阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。」とあります。猿田彦大神も祀られており、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられています。と書きました。 第986話:皇室と大麻でも、天太玉命の子孫である天日鷲命(アメノヒワシノミコト)が開拓した地であると伝わっています。天日鷲命は、「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業や製紙業の守護人となっています。 *天太玉命はウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米です。~第611話:鉱物資源と邪馬台国(9)天太玉命:水銀朱 *天日鷲命もウツシコオです。~第395話:天日鷲命はウツシコオ:天日鷲命 原田常次郎氏の言葉を信じるすれば、
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7月12日読了時間: 7分


稲荷山古墳出土鉄~ヒコ・スクネ・ワケ
第1105話 稲荷山古墳出土鉄剣のことは、第397話:hidemaru3375.com/post/獲加多支鹵大王(ワカタケル)で書きました。1978(昭和53)年、埼玉県の稲荷山古墳で発掘された鉄剣に、金象嵌(きんぞうがん)でその名前が刻まれています。 表裏あわせて115文字の「銘文」が刻まれており、剣の持ち主「ヲワケ臣(おわけのしん)」という人が、大王に仕えた記念に刻んだものです。 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名は意富比垝:オホヒコ。其の児、(名は)多加利足尼:タカリのスクネ。其の児、名は弖已加利獲居:テヨカリワケ。其の児、名は多沙鬼獲:タカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名は多沙鬼獲:タサキワケ。其の児、名は半弖比:ハテヒ。 稲荷山古墳出土鉄剣は裏にも文字があり次のように書かれています。 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也...
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7月11日読了時間: 5分


軽野神社:山の中の造船所
第1104話 前回:邪馬壱国に至る 水行十日、陸行一月では、応神天皇(=台与)は「枯野」という船は高速船を持っていたことを書きました。 日本書紀には、「由船輕疾名枯野、是義違焉、若謂輕野後人訛歟」とあり、「枯野」は「軽野」が訛ったもので本当は「軽野」が正しいとしています。 静岡県伊豆市に軽野神社がありここで、高速船「軽野」は造られたとされ、軽野神社は日本最古の造船所(跡)とされています。 軽野神社の周囲は、船材に適したケヤキやスギなどを豊富に産する天城山系です。大型の木造船を造るのに必要な木材が豊富にあり、完成した船は直ぐ近く流れ込む狩野川があり、駿河湾にすぐに出ることができます。 この軽野神社の周辺(伊豆半島の西海岸から南海岸にかけて)には、重須(おもす)、木負(きしょう)、久連(くづら)、古宇(こう)、久料(くりょう)、宇久須(うぐす)、安良里(あらり)、子浦(こうら)、妻良(めら)、田牛(とうじ)など難読地名があります。 これらの地名は、太平洋南方の海洋民族ポリネシア人に由来するとする説があります。 北赤道海流と日本海流(黒潮)に乗って南か
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7月10日読了時間: 7分


邪馬壱国に至る 水行十日、陸行一月
第1103話 邪馬台国関連の本・ブログでは、必ずこの一節が登場します。 南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。 このブログでは、千回を超えても、一度も水行、陸行について書いていません。 そこで、魏志倭人伝を書いた張政はどのような船で来て、何日かかったかを調べてみました。 中国では大型船は、紀元前3世紀にはありました。漢代には大型化し、魏志倭人伝の三国時代には外洋航行が可能なレベルに到達していました。 帆柱を複数持つ船で、水密隔壁(bulkhead)を持ち、ジャンクの特徴である竜骨のない平底構造の船です。三国時代(3世紀)=卑弥呼がいたころ、赤壁の戦いに曹操は「連環船」という呉の大型軍船を使っています。 魏の大型船では、航海日数は朝鮮半島 → 北九州:距離:約170〜190km 帆船の平均速度:4〜6ノット(7〜11km/h)約15〜25時間(1日前後)で来られます・ 風待ち・潮待ちを含めても 2〜3日 帯方郡(ソウル付近)→北九州では、距離:400〜450km 帆船の速度:同上 約40〜60時間(2〜3日)寄港・天候
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7月9日読了時間: 7分


厩戸皇子と駅路
第1102話 駅路(えきろ)とは、古代律令制において定められた駅使が通行する官道のことです。七道駅路ともよばれ、宿駅・駅馬が整備されたていました。国が発給した駅鈴を携行する駅使のみが駅馬を用いることができました。 駅路は、近畿と大宰府及び五畿七道の国府とを結ぶ迅速な情報伝達を目的とする道路網で、国家の命令・地方国司の報告・緊急事態の文書連絡は、駅使がこの道を用いて駅馬を乗り継ぎ文書を運んだのです。都から放射状に道路が整備され、五畿七道を跨いだ国府間を連絡する道も整備されていました。 古代律令時代の駅路は七道駅路ともよばれ、古代日本の領域を覆うように巡らされた駅路の道路網を指し、畿内にある都(平城京、のちに平安京)を中心として樹状に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道の地域のすべての国々に伸びていました。 駅路には、平均して30里ごとに駅家(うまや)が置かれ、駅制とよばれる古代道路におけるシステムによって運用されていました。隠岐国、西海道・南海道など海路を経由する駅路の駅には船も設置されており、や大きな川沿いの駅には駅船も
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7月8日読了時間: 7分


裂田の溝と三島溝咋耳
第1101話 裂田の溝(さくたのうなで)は、福岡県那珂川*市にある灌漑用に作られた用水路です。 日本最古の農業用水路としても知られており、疏水百選にも選ばれています。 「溝」を「うなて」と読むことは、第807話:邪馬台国と栗隈大溝(くりくまのおおうなで)で書いています。栗隈大溝(くりくまのうなて)は栗隈郷(県)の位置は、和名抄によると、山城国久世郡栗隈郷は現在の京都府宇治市大久保町付近とされています。 裂田溝は、日本書紀で、神功皇后の新羅征討にまつわる伝承のなかに登場します。 その伝承では、「神功皇后が西の方を自ら討とうとして、神祇を祭祀しようとした。 そして、神への御供えのための田(神田)をつくろうとし、その神田に水を引くために那珂川から溝を掘らせたが、迹驚岡(現在の安徳台)まで溝を掘ったところ、大磐がふさがって溝を通すことができなかった。皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神に祈らせたところ、雷が激しくなり、その大磐を蹴り裂き、溝を通させた。そのため人々はその溝を裂田溝と呼んだ」とあります。 裂田溝は、現存しており、発掘調査では、とどろきの
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7月7日読了時間: 5分


檜隈(ひのくま):身狭青(2)~大和高田
第1100話 #当麻寺 #葛城 #大和高田 前々回:磯歯津道(しはつみち):住道で書いたように、磯歯津道(しはつみち)を造ったのは、身狭青(むさ の あお)でした。 前回:身狭青は土師氏~磯歯津道(2)では、檜隈と土師氏(はじ)の関係について書きました。 身狭青は大和国檜隈(ひのくま)に居住したといいます。 檜隈(ひのくま)は、かつて大和国高市郡にあった地域で、現在の大和高田市辺りです。 檜隈は飛鳥に隣接し、秦氏などと並び有力な渡来系氏族で檜隈忌寸とも称される東漢氏の本拠地です。東漢氏の祖神を祀る於美阿志神社、東漢氏の氏寺の檜隈寺、清水寺の創建に関係する子嶋寺、高松塚古墳やキトラ古墳などの大陸風の壁画古墳が良く知られている地です。 続日本紀に坂上苅田麻呂*が宝亀3年と延暦4年の2度にわたり、坂上氏が同族である東漢氏を代表して光仁天皇や桓武天皇に奉った上表文が伝わり、そこでは後漢霊帝の後裔と称する祖先の阿知使主(阿智王)が応神天皇の時代に17県の人夫を率いて百済から日本へと帰従し、大和国高市郡檜前村を賜って居住したとしており、檜隈が東漢氏の地盤であ
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7月6日読了時間: 6分


身狭青は土師(はじ)氏~磯歯津道(2)
第1099話 #土師氏 #当麻蹴速 #檜隈 磯歯津道は、身狭 青(むさ の あお)が造ったとされています。(日本書紀) 身狭氏は、新撰姓氏録に「牟佐村主」とあり、前回:磯歯津道(しはつみち):住道では、身狭 青は呉の勝(すぐり)であるとしました。 呉の勝=安曇族=卜部氏=中臣氏=物部氏=秦氏=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ・台与です。 新撰姓氏録逸文によると、「牟佐村主」は仁徳天皇*の御世に渡来し、大和国檜隈(ひのくま)に居住したといいます。*仁徳天皇は台与です。~第582話:仁徳天皇(第16代)で仁徳天皇が寵愛したのは、身狭村主青と、檜隈民使博徳たちだけだったといいます。 大和国檜隈(ひのくま)の「ひのくま」は、檜隈=檜前=桧前とも書かれます。 桧前といえば、第1061話:枚方・白肩・白方・平潟 第747話:浅草と枚方:茨田堤:武蔵の人・強頸で書いたように、浅草の浅草寺で、聖観世音像を川から拾ったとされるのが、桧前浜成命・桧前竹成命です。 日本書紀の仁徳天皇の項には、「茨田堤には、どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事が難渋した。こ
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7月5日読了時間: 5分


磯歯津道(しはつみち):住道
第1098話 磯歯津道(しはつみち)は、雄略天皇の時代に整備されたとされる古代の国際街道です。大阪市住吉区の住吉津(すみのえのつ)に到着した外国使節を飛鳥の都へ案内するために造られた道で、現在の長居公園通におおむね重なるとされています。 長居公園通にほぼ沿っていた街道で、住吉区の浜口町付近に上陸した外国使節がこの街道を東進し、奈良に向かったものと考えられています。 日本書紀の雄略天皇紀には、「雄略8年に青(アオ)*と博徳(ハカトコ)が呉国に出使し、呉の使いと共に機織の技術者を連れて住吉の津に上陸した。そして呉の来朝者のため道を造って磯歯津路を開通させて、これを呉坂(クレサカ)と名づけた。」と記載されています。 「しはつ」は磯果、磯歯津、四極等と万葉集にも出てくる地名です。 当時の中国の王朝から渡来した人々は住吉津に上陸した後、磯歯津路を通り、旧大和川を利用し、水路・陸路をたどって奈良に向かったと考えられます。 この磯歯津路から眺められる、現在の住吉区から東住吉区にかけての丘を四極(しはつ)山とよび、万葉集にも詠まれています。 大阪市東住吉区住道矢
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7月4日読了時間: 5分


ヤマトトモモソ姫と天五田根命
第1097話 第1095話:八掬脛はナガスネヒコで登場した天五田根命は、越の国開拓を行った天香山命の事業を引き継ぎ、紀伊国から讃岐国に渡り、水上運送などの整備を進めたようです。 香川県高松市一宮町にある田村神社には、田村大神として、天五田根命(あめのいつたねのみこと)が祀られています。 田村大神について、中世の書物では猿田彦や五十狭芹彦命を指すとされ、神櫛別命・宇治比売命(注:下記)・田村比売命・田村命など様々な説があります。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)*であったとする説もあります。 猿田彦はウツシコオです。~第596話:彦狭知の物語8~猿田彦 前回:オノコロ島と塩釜神社では、「鹽竈神社縁起の中には、「塩釜六所明神或曰猿田彦事勝國勝塩土老翁岐神興玉命太田命六座同体異名神也」とあり、鹽竈神社の別宮に祀られている神(塩釜六所明神)は、猿田彦、事勝國勝、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命の6座と同体異名の神であるとされています。」と書きました。 猿田彦、事勝國勝、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命はすべてウツシ
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7月3日読了時間: 6分


オノコロ島と塩釜神社
第1096話 オノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島で、イザナギ・イザナミによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっています。古事記では淤能碁呂島(おのごろじま)、日本書紀では磤馭慮島(おのころじま)と表記されています。 また、オノゴロ島は、自凝島とも表記され、「自(おの)ずから凝り固まってできた島」の意味です。 イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が、国生みの際に、「天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった。これがオノゴロ島です。 この「こをろこをろ」というのは、鉄釜で塩を作るときの音だと指摘されておられるのは、考古学者の森浩一氏です。「日本神話の考古学」P15 古事記では、製塩の情景について、「こをろこをろ」と塩の結晶を道具かき混ぜる音を入れて描かれえています。 宮城県の塩竃市にある塩竃神社には、境外末社に御釜神社があり古い鉄窯が四個保存せれています。この鉄窯を使って藻塩神事が行われ
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7月2日読了時間: 7分


八掬脛はナガスネヒコ
第1095話 越後(新潟県)にも、土蜘蛛が居たようです。 越後国風土記に曰く。美麻紀天皇(崇神天皇)の御代に越の国の人がいた。名前は八掬脛(やつかはぎ)という。その人の脛の長さは極めて長く、怪力で甚だ強かった。これは土蜘蛛の後裔であるからだ。彼らの一族は多い。とあります。 八掬脛は、特に崇神天皇(=台与)の時代に存在したとされる存在です。彼らは「八掬脛」と呼ばれ、すねが長い人であり、力が強く、土雲の後裔であるとされています。八掬脛は、越後の国に住んでいたとされ、崇神天皇の御世に存在したと記されています。彼らの存在は、越後国の風土記や古事記、日本書紀などの文献に記されています。 すねが長い人といえば、どうしても長脛彦(長髄彦)を思い浮かべてしまいます。 第1092話:国栖と塞の神~川上鹿鹽神社では、長髄彦(ナガスネヒコ)は長脛彦と書くと「脛:すね」、ナガスネヒコの正体が分かります。荒脛巾神の脛(はぎ)でです。長髄彦=長脛彦=荒脛巾神はウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米です。 と書いたばかりです。 八掬脛は、八握脛、八束脛と表記さ
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7月1日読了時間: 6分


崇神天皇と租庸調
第1094話 茨城県常陸太田*市に長幡部神社(ながはたべじんじゃ)があります。 祭神は綺日女命 (かむはたひめのみこと)、多弖命 (たてのみこと)の2柱で、常陸国風土記に記される長幡部一族の祖神です。 長幡とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表します。長幡部氏は、渡来系氏族と思われ、新撰姓氏録の阿智王条*では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると書いてあります。*阿智氏は、阿智氏は、台与の一族のことです。 ~第689話:阿智氏・阿直岐は、、、 常陸国風土記では、久慈郡について、「瓊瓊杵尊*が天降った際、御料衣を織るために付き従って天降った綺日女命は、美麻貴天皇*の御代になって長幡部氏の遠祖・多弖命は機織屋を建築し織物を織った。長幡部神社の祭神綺日女命からの御調として朝廷に献上している。」とあります。*瓊瓊杵尊(ニニギ)は台与です。~第436話:瓊瓊杵尊:ニニギは台与 *美麻貴天皇(ミマキ天皇)とは、ミマキイリヒコ(御牧入彦)=崇神天皇、つまり
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6月30日読了時間: 6分


崇神天皇と国栖
第1093話 前回:国栖と塞の神~川上鹿鹽神社では、吉野に住んでいた国栖(くず/くにす)と呼ばれる人々が「白檮上(かしのふ)」に横長の臼を作り、それを用いて酒を造り応神天皇に振る舞い歌ったことが記されています。と書きました。 常陸国風土記にも、国栖が登場しています。 崇神天皇の御代、東国の辺境*の地の荒ぶる賊を平定するため那賀国造*の祖である建借間命*を遣わした。安婆*の島に宿営したとき、海の東の浦を遥望すると煙が見えた。人がいるのではと思った建借間命は天を仰ぎ誓約を行い「もし天皇に服属する民の煙であるならば流れ来て我々の上を覆え、だがもし荒ぶる賊の煙ならば退いて海へたなびけ」というと煙は海へたなびいた。これによりおのずから凶賊であることがわかったので、配下の軍兵に命じ、朝飯を早く済ませて軍は海を渡った。このとき敵軍には国栖の夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人がいた。彼らは自ら首領となり穴を掘り、堡を造って、そこに住んでいた。天皇の軍の動向をひそかに探り身を潜め守りを固め抵抗した。 建借間命は、騎兵に堡を封鎖させ、背後から賊を襲いか
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6月29日読了時間: 6分
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