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片埜神社~地球幾何学3

tootake

更新日:2023年12月25日

第172回~阿弖流為(アテルイ)伝説


牧野車塚古墳から1キロ離れた場所に片埜(かたの)神社があります。


社伝によれば、垂仁天皇の時代に出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞として当地を拝領し、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀って一族の鎮守としたのに始まるとされています。「片埜」(片野、交野)はこの一帯の古名で、交野市の地名の由来でもあります。社家の岡田家は野見宿禰の後裔であるといいます。

能見宿祢は出雲出身とされていますが『和名抄』には摂津国島上郡(ミマキ国)に「濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆されています。これにより野見宿禰は、ミマキ国(北摂)にかなり近い地域の出身者であったことがうかがえます。かつては広大な社地を有し、「交野の御野」「牧野の桜」と呼ばれる桜の名所として歌枕にもなっていました。高山右近の高槻城があった辺りが「のみ」です。〒569-0077大阪府高槻市野見町

無理に出雲に結び必要はなく単に素戔嗚を祭っているのです。今はこの辺りのエビスさんになってしまっていますが、、投馬国は但馬、但馬は丹波、丹波は出雲


ここには阿弖流為(アテルイ)の墓があります。アテルイは8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長です。史実にはじめて名前がみえるのは、古代日本の律令国家(朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて、紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中です。その後延暦二十年の征夷が終結した翌年胆沢城造営中の坂上田村麻呂の下に盤具母禮(イワグノモレ)とともに降伏し、田村麻呂へ並び従い平安京へ向かい、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出たことに対して公卿達が反対したため河内国杜山(椙山、植山とも)で母禮(モレ)とともに処刑されてしまいました。


河内国杜山というのがこの片埜神社のある場所だとされているのですが、このことについて様々の論争があり、いまだに決着がついていません。そもそも、片埜神社は河州(河内)一之宮とも称されていましたが、交野郡の一宮であって河内国の一宮ではありません。この辺りは河内ではないのです。


馬部隆弘(歴史学者)は、宮内庁書陵部「満基公記 合綴 河内国禁野交野供御所定文 道平公記抄出」にて記された禁野の大まかな地理的記述からその範囲を推定して宇山説を否定する見解を示しています。


禁野内に死人が放置されることがないよう日々の巡回警護を「野守専当」の職分として定めていたり、忌日にあたっている者が供御所に勝手に墓をつくることを禁じる条文がみえる。……  一、御野内にて穢駈鷹駈の外ハ曽不可殺生者也  鷹の餌を獲るための狩り(穢駈)と鷹を使っての狩り(鷹駈)以外の殺生は禁じるというものである。……禁野の中心やや西寄りに位置する宇山でのアテルイ処刑など毛頭考えられない。


朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないため杉・宇山を比定地とすることに対して批判もあります。禁野は神聖な場所だったのです。


世界最大級の古墳:仁徳天皇陵(大仙陵古墳:だいせんりょうこふん)そしてすぐその下にある履中天皇陵は全く同じ向きをしています。地図では北東に傾いているように見えます。試しにこの傾きを保ったまま北東に線を引くと、線は枚方市の牧野車塚古墳にぴったりと行きつきます。と170話で書きましたが、実は傾いた線の到着地は牧野車塚古墳ではなくこの片埜神社ではないか思います。牧野車塚古墳と片埜神社の距離は約1キロです。



※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。




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