日本は加那の国号であった??
- tootake
- 8月22日
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第782話 #天武天皇 #饒速日 #盾津
「日本という国号は、元々 朝鮮南部にあったの加那の国号であった。」とされるのは、京大名誉教授 江上波夫氏です。1977年、江上氏を会長とする「東アジアの古代文化を考える会」主催で、東京・有楽町の朝日講堂で開かれたシンポジウムの中で「日本の国号の起源」に関連して、この説が提示されました。
私は、この説に賛同するつもりはないのですが、「日本」とは、中国の東にある国で日出処であることから、中国が名付けたとのではという理屈は納得できます。~第781話:日出処天子の嘘
以下はAI(GTP-4)が書いた文章です。
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「日本」という国名の由来には、中国から見た地理的な位置が深く関係しているという説が有力です。その意味には諸説ありますが、中国から見ると東にある国つまり太陽が昇る地という意味という説があります。
🏮「日本」命名の背景と中国の視点
古代、中国では日本を「倭(わ)」と呼んでいました。これは『魏志倭人伝』などの史料にも登場します。しかし、7世紀後半、天武天皇の時代に「倭」から「日本」へと国名が変更されたとされます。
この「日本」という名称は、「日の本(ひのもと)」=太陽が昇る場所という意味を持ち、中国から見て東方に位置することから名付けられたという説があります。
つまり、中国の中心的な世界観(中華思想)において、東方は太陽が昇る神聖な方向とされており、日本はその「日の出ずる国」として認識されたわけです。
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<天武天皇が日本という国名を採用した背景>
・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が制定された7世紀後半、天武天皇は豪族連合的な政治構造から中央集権的な律令国家へと転換を図ります。この変革において、従来の「大王」(おおきみ)や「倭」(わ)といった称号・呼称を見直し、「天皇」という称号とともに新たな国号を定めることで、統一された国家アイデンティティを国内外に示そうとしたのです。
・天武天皇は唐の制度にならい、中央政府の役職や郡県制を本格的に導入。律令による官僚機構を整備する過程で、国号もまた「倭」から「日本」へと改めます。ここには、中国(当時の唐)から見て東方にある「日がのぼる国」という意味を自称することで、他国と対等な国家としての立場を国際的に強調する狙いがあったと考えられます。
・大宝律令(701年)施行の際、唐へ派遣された遣唐使が自らを「日本」の使節と称している記録が残っています。これは「日本」という国号が天武朝(7世紀後半)に成立し、「天皇」という称号と一体で用いられ始めた証左といえます。
ちなみに、このブログでは、天武天皇は台与としています。
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<蛇足の追記>
倭国を日本としたのは、饒速日(ニギハヤヒ)※であるという説もあります。
日下と書いて「くさか」と読みます。東大阪市日下町には、孔舎衙小学校があります。
孔舎衙を「くさか」と読ませています。「くさか」は、本来「草賀」と書くべきです。
そして日下は「ひのもと」と読むのが正しい読み方でしょう。日下=日元=日本ということです。
そして、この日下は磐余彦(神武天皇)が長髄彦と戦ったとされる場所です。
磐余彦(神武天皇)は、東に軍を向けて胆駒山(生駒)を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長脛彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衙坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いなり、磐余彦尊の兄:五瀬彦は流れ矢にあたって負傷。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返し、草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称したとされています。
第447話:小楯姫は台与:小楯は枚方 では、小盾は枚方としました。
草香津=白方=盾津=枚方とすると、盾に尊称の御をつけると「オタテ」になります。御を小に変えると小盾になるというわけです。
※饒速日は台与です。~饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
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まず、辰孫王という人物ですが、これを直接ふみ氏(西文氏)の始祖とする史料は、おもに『新撰姓氏録』(八世紀末成立)における「河内国 西文首 臣」(かわちのくに/ふみのおびと)の条に見えます。そこでは「辰孫王の後」とだけ記し、朝鮮から来た王族の流れをくむとするものの、名を王仁とも辰孫とも明確には書き分けていません(新撰姓氏録 巻第三河内国)。
一方、王仁(わに)については、『日本書紀』応神天皇十五年条に「百済の人王仁、千字文・論語を伝へ…河内国西文首」の祖とする記事があり、古くから〈王仁=西文首の祖〉という伝承は一定の根拠を持ちます。
甲斐国志
1814年、「甲斐国志」四十八巻にて王仁の塚(和仁塚)について記載されている。
<台与シリーズ>
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