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日向土本毘古王=沙本毘古王は台与

tootake

更新日:2月1日

第577話 #日向土本毘古王 #沙本毘古王 #台与


佐久神社は山梨県甲府市下向山にあります。祭神は、向山土木毘古王、建御名方命菊理媛神、手力雄神です。祭神の向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)は彦火々出見尊の後裔で日向の国(日向は大阪府守口市高屋御殿で生まれ第二代綏靖天皇の大臣となり、後に甲斐の国造に任命されます。其の頃甲斐の中央部は一面の湖で、この湖水を流動する為、南方山麓鰍沢禹の瀬の開削により、水を今の富士川に落とし、多くの平土を得、住民安住の地を確保したとされいます。昔、この地が湖水であった頃、水を抜いて、開拓したことによって、社名が佐久(さく)となった社伝にあります。


亀岡盆地もかつて湖で、大国主命が保津峡を開削、湖の水を抜き盆地を開拓したという伝承(蹴裂伝説)が、亀岡周辺の神社数社で伝わっています。~丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!

亀岡の干拓・開拓により行い四国の人々に食料を安定して供給することができたのです。~秦氏と大山咋神 丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!大宜都比売(おおげつひめ)は台与


丹波の地名の由来として、「諸国名義考」には「田庭なるべし」とあります。これは、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲を作っていた広く平らな場所の意味だといいます。昔は赤米が主流だったので、 「赤い米がたわわに実って風にそよぐさまが赤い(丹)波のようみ見える」というように解釈されています。


宝賀 寿男氏 は、甲斐国造は「橋立明神」等の神社祭祀から狭穂彦命系よりも、丹波道主命系が妥当で、日向土本毘古王の伝承は、甲斐国造祖としての沙本毘古王を強く意識して創作されたものだろう。としておられます。


・甲斐国山梨郡熊野神社社伝によると第二代綏靖天皇の御宇、皇子:土本毘(とほび)古王、甲斐国開拓に際し、邑を設け守護神として奉斎。又、第十二代景行天皇の御宇、日本武尊ご東征の節、酒折宮にご仮泊中度々この地にお出ましあり、故に五穀豊饒の御神徳篤とあります。


・宮崎県に伝わる伝承では「洪水で川の土手が決壊し村人が困った時、軽々と持ち上げた大岩で塞いでくれた」「川の水を大岩でせき止め、村人に自分の草鞋を100足作るように要求(悪ふざけ)をした」「高い山に登り、雲をかき回して雷が鳴るのを鎮めようとして村人を驚かせた」など、一般の人間達とは、時に助け時に困らせるなどしつつ、概ね友好的な関係を築いていた巨人とされています。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられています。

秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、ダイダラボッチが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった(鳥の海の干拓伝説)。~ダイダラボッチ・大人弥五郎


第459話:hidemaru3375.com/post/台与と秦氏では、下記のように書いています。

茨田堤や堀江を築いたのは秦氏です。


「又秦人(はたひと)をえたちて茨田堤及(また)茨田三宅を作り、又丸邇池(わにのいけ)・依網池(よさみのいけ)を作り、難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江(をばしのえ)を掘り、又墨江の津を定めたまひき」


秦氏が台与の後ろ盾になり、両者が協力したことによってヤマト=邪馬台国は、大規模な土木工事ができるようになり、亀岡の干拓(参照:秦氏と大山咋神 丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!)や香川県で農地の開墾、開拓を行い四国の人々に食料を安定して供給することができたのです。参照:大宜都比売(おおげつひめ)は台与


香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)があり、倭迹々日百襲姫命を祀っています。社伝ではヤマトトモモソ姫は7歳のとき倭国大乱を逃れるため、大和国黒田の盧戸を出立し、居を讃岐国水主に定めたのち成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆を成したとされています。ヤマトトモモソ姫は台与です。~倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ


上記により、日向土本毘古王=沙本毘古王は台与(豊)と思われます。

*ダイダラボッチ=ヤマトトモモソ姫=台与でもあります。

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佐久神社は祭神の、土本毘古王(とほひこおう)は、別名を手力雄神といい、甲斐国造祖の沙本毘古王(狭穂彦*)のこととされています。また沙本毘古王が手力雄命を信仰したために、土本毘古王は手力雄神とも同一視されています。これは弓手力雄神、又手力雄神等、手力雄神に因んだものは、生前に手力雄神を崇敬し、常に心で祈願して居たと言う関係と思われると佐久神社の社伝にありますが、手力雄神はスサノオウツシコオ(内色許男命)で台与の祖父です。~スサノオは天手力男神=野見宿禰


*記紀では、狭穂彦・狭穂姫は兄弟で彦坐王(ひこいますのみこ)の子、彦坐王は開化天皇の子、狭穂姫は垂仁天皇の后とされていますが、すべて創作です。狭穂彦は、狭穂姫ともに稲城の中で自害したとされていますが、日向土本毘古王( むこうやま・とほひこ・おう)と同一人物で甲斐国造の祖とされています。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
28 Jan
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