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地名から読み解く邪馬台国


田辺史氏(4):田辺難波
第940話 田辺史氏は、奈良時代の官吏であり、百済系の渡来氏族に属していました。彼らは河内国安宿郷の田辺の地を本拠地とし、日本書紀や新撰姓氏録に登場する重要な人物たちを輩出しました。田辺史氏の代表的な人物には、田辺伯孫、田辺史鳥、田辺小隅などがいます。また、藤原不比等を育てた田辺史大隅の名も、尊卑分脈に記されています。 田辺史氏は、天平勝宝2年(750年)に上毛野君に改氏姓し、弘仁元年(810年)に朝臣姓を賜わり、皇別の上毛野氏の同族に列しました。ところで上毛野の祖といえば、 豊城入彦命です。豊城入彦命は、日本書紀によると、豊城命は東に向かい武器を振るったので 東国 を治めさせるために派遣されたといいます。豊城入彦命については、第756話: 赤城山と豊城入彦命(台与) 第424話: hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山 で台与としています。 そして、奈良時代の貴族に田辺難波 (たなべのなにわ) という人物がいます。 氏性は田辺史でのちの上毛野君とされています。 田辺難波は、(724年)「蝦夷討伐」に参加
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1月27日読了時間: 4分


藤原不比等と田辺史氏(3)
第939話 前回: 藤原不比等と田辺史氏(2) で述べたように、田辺史氏は、単なる一氏族ではなく、 河内安宿郷を中心とした渡来系知識人ネットワークの核 でした。 地理的ネットワーク 河内安宿郷(本拠)~元は、枚方市甲斐田(柏原): 第757話: 甲斐国と甲斐田(枚方) 摂津住吉郡田辺(北田辺)~住吉大社=瀬戸内海;朝鮮半島;中国大陸への玄関 第922話: 邪馬台国は河内湖:長柄船瀬 山城国綴喜郡田辺(京田辺)~ ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米の本拠地 紀伊国田辺(和歌山県田辺市)~ スサノオ のホームタウン~ 第543話: 熊野の神々 代表的な田辺史氏の人物 田辺史伯孫(はくそん):雄略紀に登場、河内安宿郷の住人 田辺史鳥(とり):日本書紀に登場、文筆・記録に関わる人物 田辺小隅(おすみ):壬申の乱で近江軍の将 田辺史大隅(おおすみ):藤原不比等の養育者として、『尊卑分脈』にのみ登場 田辺史広足(ひろたり):奈良時代の官人、甲斐守 続日本紀に田辺広足が黒身にして白(髪)尾の神馬を聖武天皇に献上したことが見
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1月26日読了時間: 4分


藤原不比等と田辺史氏(2)
第938話 前回の 甲斐の国造は、、、 では、 田辺史広足=手力雄神= ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米としました。 このことを実証するために 田辺史広足の 田辺史氏は ついて調べることにしました。 しかし、その前に、田辺という地名について考察します。 ・摂津国住吉郡(大阪市東住吉区田辺)は、住吉神社の近くです。ウツシコオ=武内宿祢との関係が深い地です。 住吉神=武内宿祢= ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) ・山城国綴喜郡田辺(京田辺市)は、木津川(泉川)のある地で、これまでも何度も登場しています。~ 第821話: 泉津~泉(5)京都府木津川市 第331話: 朱智神社~迦邇米雷王 では、 朱智神社があるあたり一帯は天王(地名:京都府京田辺市天王)です。と書きました。天王はスサノオのことです。スサノオはウツシコオです。 ・紀伊国田辺(和歌山県田辺市)は熊野本宮大社のある地で、ウツシコオのホームグラウンドです。~ 第543話: 熊野の神々は、、、 「田辺」という地名は、いずれもウツシコオと関係の深い地
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1月25日読了時間: 5分


藤原不比等と田辺史氏(1)甲斐の国造
第937話 笛吹川(ふえふきがわ)は、甲斐の国(山梨県)をながれています。日本三大急流の富士川水系の一級河川です。最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつである富士川水系の笛吹川は地形が急峻なため、梅雨や集中豪雨、台風により洪水が起こりやすい川です。 このブログでは、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米 と台与は日本各地の暴れ川の改修を行って稲作を促進してきたと書いてきました。きっと笛吹川の周辺にも、台与とウツシコオの痕跡があるはずだと思って調べてみました。 山梨県笛吹市石和町河内に佐久神社がありました。 山梨県甲府市下向山町にある佐久神社については、すでに 第577話: 日向土本毘古王=沙本毘古王は台与 で書いてしまっていました。この佐久神社の 祭神は、向山土木毘古王、 建御名方命 、 菊理媛神 、手力雄神です。祭神の向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)は彦火々出見尊の後裔で日向の国( 日向は大阪府守口市 ) 高屋御殿で生まれ第二代綏靖天皇の大臣となり、後に 甲斐の国造 に任命されます。其の頃甲斐の中央部は一
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1月24日読了時間: 6分


彦火火出見尊は台与
第936話 前回: 火闌降命は台与 で書いた 火闌降命は、海幸彦です。古事記では、 火照命。日本書紀では 火闌降命です。そして、 山幸彦は、火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)です。 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、別名:火折尊(ほのおりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)で、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子であり、神武天皇(初代天皇)の祖父にあたります。 じつは、神武天皇も「彦火火出見」です。 神武紀冒頭に、神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見。すなわち彦火火出見は、神武天皇の実名であると記されています。 神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余 彦火火出見 尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余 彦火火出見 天皇」(第八段一書第六)とあります。 神代紀を筆録した人がそれと知りながら二人のことを同じ名で呼んで憚っていないのです。ホホデとは、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされています。しかし、神武天皇の人物像や事績に
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1月23日読了時間: 5分


火闌降命は台与
第935話 火闌降命は、 火の中で誕生した三兄弟の第二子です。三兄弟とは、火闌降命(ほのすそりのみこと)、火酢芹命(ほのすせりのみこと)、火進命(ほのすすみのみこと)です。 古事記では、「火照命」が「隼人の阿多君が祖」とされ、弟の火遠理命と争うが、日本書紀では、火闌降命が「隼人等の始祖」(九段本書)、「吾田君小橋等が本祖」(十段本書)とされています。新撰姓氏録でも、阿多隼人・大角隼人が、火闌降命を祖としています。 このブログでは、隼人一族は、台与、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米の一族としています。 隼人1) 隼人族は呉の勝 隼人2) 隼人族は疑似民族集団 隼人3) 阿多隼人(薩摩隼人) 隼人4) 大隅隼人は京都府京田辺市 ところで、 第933話: 産湯稲荷神社:大小橋命 で書いた 神武天皇の最初の妻は吾平津媛は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)なのです。 阿陀比売神社は、奈良県五條市原町にあります。この辺りは「アタ」と呼ばれる地域です。 最寄り駅は、近鉄大阿太駅です。 この阿比良比売が神武天皇の最初の妻の
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1月22日読了時間: 5分


筑紫は、守口市?
第934話 筑紫とは、福岡県で、南部を筑後、北部を筑前、中部を筑豊とされています。古事記・日本書紀では、神武天皇の東征の出発の地とされています。 「筑紫」は、我が国の神話および国家成立における歴史上、重要な意味を持つ地名です。 ・伊邪那いざな岐ぎの 尊みこと が 禊払を行った場所が「筑紫の日向」です。 ・「筑紫の日向」の言霊学的解釈 「筑紫(つくし)」は、その語源は「尽つくす」から来ており、四方八方に広がる(尽 くす)という意味です。そして、「日向(ひむか)」の「日」は、「陽」すなわち「太 陽」を表しており、「向」は、そのまま「向かう」という意味になります。 「日向」とは、「太陽が向かう」という意味になり、「筑紫の日向」で、「太陽の光が尽十方(四方八方)に広がる大宇宙」を指す言葉となります。 ・天孫降臨の地「筑紫の日向」 瓊瓊杵尊:ニニギノミコトが、高天原から天下ってきた場所が「筑紫の日向」です。 記紀では「瓊瓊杵尊が筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天 降る」と記述されています。 これは、饒速日が河内の 河上哮ケ峯に天下ったのと
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1月21日読了時間: 5分


産湯稲荷神社:大小橋命
第933話 大阪府大阪市天王寺区に小橋(おばせ)という地名があります。 この小橋(おばせ)という地名は、日本中でここにしかありません。 この小橋(おばせ)には、 産湯稲荷神社があります。祭神は、 大小橋命 です。 この神社の境内には産湯清水が湧き出ていて、大坂六清水の1つと言わるほど有名な井戸でした。神功皇后の近臣である雷大臣*が大小橋命(オオオバセノミコト)を生んだ時に、産湯を汲んだことから名づけられました。 大小橋命 は、神武天皇の最初の妻である 吾平津媛の父親です。古事記によれば吾平津媛は「阿多之 小椅 君」の妹とあります。この阿多之小椅君は、日本書紀に登場する火闌降*の子孫である「吾田君 小橋 」と同一人物と思われます。 大小橋命(亦名・御味宿称)は、父は中臣雷大臣*、母は武内宿禰*の女・紀氏清夫で、父・中臣雷大臣は神功皇后に仕えて活躍して「対島県の祖」と云われ、対島市にその祭祀社が多く鎮座しています。つまり 大小橋命 は、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) です。 対馬はウツシコオと関連のある地です。~ 第498話
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1月20日読了時間: 4分


茨城県の邪馬台国(3)近津神社:オモダル・アヤカシコネ
第932話 近津神社(ちかつじんじゃ)は、茨城県久慈郡大子町にあります。 社伝によると日本武尊の創建とされ、慶雲4年(707年)に社殿が建てられたといいます。 祭神は、オモダルとカシコネです。二神は、兄弟とされ、古事記では兄を淤母陀琉神(オモダル)、妹をアヤ・カシコネ(阿夜訶志古泥神)、日本書紀では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシコネ)と表記します。 古事記では、神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神です。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神です。 オモダルは、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米の別名である 思兼神から転じた名前だと思います。 日本書紀には「思兼神」と記され、「思」は思慮、「金」には「兼」の字を充て、「多くの思慮を兼ねている神様」とされ、思金大神のお働きを「深謀遠慮」と表現されており、将来を見据えたビジョンを描く知恵の神であります。 思金大神は、天地開闢のはじまりに
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1月19日読了時間: 5分


栃木県の邪馬台国(2)日光二荒山神社
第931話 日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にあります。 下野国一宮です。 関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社す。 本社は、栃木県日光市山内にあります。 別宮本宮神社 は、女峰山登山口入口。奥宮(栃木県日光市中宮祠二荒山)は男体山山頂です。 日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神を当て祀っています。 祭神は、二荒山大神で、大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称とされています。つまり、大己貴命=大国主、田心姫命=市杵島姫命、味耜高彦根命です。 第424話: hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山 では、次のように書きました。 「男体山は御神体であり、大己貴命(おおなむち)であり、千手観音(せんじゅかんのん)ででもあります。女峰山も御神体で、田心姫命(たごりひめ)であり、阿弥陀如来(あみだにょらい)でもあります。大己貴命は ウツシコオ (内色許男命
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1月18日読了時間: 6分


栃木県の邪馬台国(1)名草厳島神社
第930話 名草厳島神社(足利市)概要:名草厳島神社は栃木県足利市名草上町にあります。厳島神社の創建は平安時代初期の弘仁年間(810~824年)、弘法大師空海(真言宗の開祖)が巡錫で当地を訪れると 弁財天の化身と思われる白い大蛇 *に導かれこの地へ辿り着きました。空海は霊石、怪石が点在するこの地が比例無き霊地と悟り弁財天を勧請し当社の起源となりました。弁財天は水を司り、その水が川となり多くの農作物を育て事から豊穣の女神として信仰され水源農耕の守護として広く知られました。 第901話: 弘法大師(空海)の伝説の真相 でも書いたのですが、弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あり、歴史上の空海の足跡をはるかに越えています。空海の伝説は、実際は、台与(秦氏)が、日本各地の暴れ川(洪水を起こす川)の河川工事を行ったことが、元になっていると思います。 ところで、名草厳島神社の「名草」ですが、「名草」とは和歌山県和歌山市です。名草はこのブログでしばしば登場する地名で、私が、ウガヤフキアエズ= ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田
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1月17日読了時間: 5分


茨城県の邪馬台国(2):武生神社と坂上田村麻呂
第929話 常陸太田市下高倉町に武生神社(たきゅう神社)があります。 祭神は、大戸道尊です。神武天皇の頃、大戸道尊がこの山頂に降臨され、大宝元年(701)、役小角*が神霊を武生山上に遷祀、社殿が創建されたのが大同元年(806)3月1日と伝えられています。*役小角はウツシコオです。~ 第475話: 役の行者(役 小角)と韓国広足 大戸道尊とは、オオトノヂ(意富斗能地、大戸之道)・オオトノベ(オホトノべ、大斗乃弁、大戸之部)は、オオトマヒコ(大戸摩彦、大苫彦)・オオトマヒメ(大戸摩姫、大苫姫)の男女一対の神です。 古事記では兄を意富斗能地神、妹を大斗乃弁神、日本書紀では兄を大戸之道尊、妹を大戸之部尊、先代旧事本紀』では兄を大苫彦尊、妹を大苫姫尊と表記しています。 オオトノヂ(意富斗能地)の「地」は男性、オオトノベ(大斗乃弁)の「弁」は女性の意味で、「オホト」は、男女の性器と考えられています。神話ではこの二神に続き、まず地面または体が不備なく整った淤母陀流神・阿夜訶志古泥神が現れ、次に出現した伊邪那岐・伊邪那美二神の国生みにより国土(大八嶋国)が誕生し
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1月16日読了時間: 5分


茨城県の邪馬台国(1):薩都神社
第928話 以前、 第48話: 太田市と遺跡 ~呉の勝 という記事を書きました。 太田の地名は、邪馬台国(= ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米 ・台与)と関係があるはずだと、ずっと思っていました。茨城県にも太田市があります。この付近の神社を調べてみました。 薩都神社(さと神社)は、茨城県常陸 太田市 里野宮町にあります。祭神は、立速日男命*です。立速日男命(たちはやびおのみこと)は、常陸国風土記に登場し、立速男命(たちはやおのみこと)とも、速経和気命(はやふわけのみこと)ともされています。常陸国風土記では、立速男命の祟りに苦しんだ住民たちの要請を受けて、中臣鹿島連の祖・片岡大連(国摩大鹿島命の孫)*が朝廷より派遣されて祭祀させたとあります。 常陸国風土記には薩都神社の項が存在し、延暦7年(788年)松澤の地に社を建てたのを創祀としています。延暦19年(800年)には村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼之峰(かびれ:日立市入四間町)に遷座、更に大同元年(806年
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1月15日読了時間: 4分


髪長姫(3):藤原宮子
第927話 前号: 髪長姫(2):日向の髪長姫 で、日向の髪長姫は台与としました。 日向の髪長姫は、仁徳天皇の后とされています。 そして、 第925話: 髪長姫(1)道成寺 で書いた、道成寺の髪長姫は、 文武天皇の后すなわち、藤原不比等の長女での藤原 宮子です。 道成寺に伝わる伝承によれば藤原宮子は九海士の里(和歌山県御坊市湯川町下富安)で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として宮子姫髪長譚(宮子姫物語、髪長姫伝説)が伝えられ町おこしにも利用されています。 梅原阿猛氏は、 宮子は不比等の養女で、紀州(和歌山県)の海女であったとする説を考証しておられます。~海人と天皇新潮文庫(9503) 「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年(701)に紀伊国の牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのです。 が、とても信じられる話では、ありません。これは、俗説です。 藤原宮子(=髪長姫)は、史上初めて生前に正一
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1月14日読了時間: 5分


髪長姫(2):日向の髪長姫
第926話 「諸県君牛諸井日向国に美しい娘がいます。名を髪長媛といい諸県君牛諸井の娘です。国色之秀者(かおすぐれたるひと)です」という者がありました。 日本書紀によると、応神天皇に仕えていた髪長姫の父;牛諸井が年老いて帰国する際に、朝廷の恩を忘れず、代わりに髪長媛を差し出した。とあります。 応神天皇が淡路島に狩りをされたとき、西を望むと数人の鹿皮を着けた手こぎの舟が播磨(はりま)の水門(みなと)に入った。不思議に思って使いの者に調べさせると、それは、本庄から一月の舟旅でやっとたどり着いた牛諸井髪長媛一行であった。天皇は、大変喜び召船(めしふね)に引かせた。 船で着いたところが播磨(兵庫)の鹿子水門(かこのみなと)*で、このことから船人を「かこ」、その出入り口を「港」と言うようになった」とあります。*鹿子水門とは、兵庫県加古川市です。 天皇は、媛を大和に近い桑津邑(くわつむら)*に住まわせたが、皇子の大ささぎ尊(後の仁徳天皇)は、媛の美しさに恋慕され、想い悩まれるようになった。この事を臣下から知らされた天皇は、ある日宮廷に宴席を設けて媛をよび、皇子
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1月13日読了時間: 6分


髪長姫(1)道成寺
第925話 道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町鐘巻にあります。安珍清姫で有名です。地名の「鐘巻」清姫が安珍が隠れていた釣鐘を蛇になって巻き込んだことからきているのでしょう。 寺伝によると、道成寺は、大宝元年(701年)に文武天皇の勅願を受け、義淵僧正を開山として紀大臣道成によって建立されたといいます。別の伝承では文武天皇の夫人で聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いによって文武天皇が創建したともいいます。 この伝承では藤原宮子は紀伊国の海女であったとする考証もあります。 道成寺に伝わる伝承によれば藤原宮子は九海士の里(和歌山県御坊市湯川町下富安)で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として宮子姫髪長譚(宮子姫物語、髪長姫伝説)が伝えられ町おこしにも利用されています。 「宮子姫髪長譚」 1.出生地:九海士(くあま)の里~道成寺の寺伝では、藤原宮子は九海士の里(現・御坊市湯川町下富安)に生まれたとされる。 海女の娘として生まれ、髪が生えない子であったという“異常出生譚”が物語の核。 2.黄金仏の出現と髪の成長~
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1月12日読了時間: 4分


秦氏の研究
第924話 秦氏の起源については、近年とくに 文献学・考古学・言語学・地域史研究の複合的アプローチ が進み、従来の「秦始皇帝の末裔説」や「百済王族説」のような単純な系譜神話から大きく離れた、より現実的で多層的な像が浮かび上がっています。検索結果から得られる最新の研究動向を踏まえ、現在もっとも説得力のある学術的整理をまとめます。 近年の研究では、秦氏の活動を示す遺跡・土木技術が注目されています。 ■ 葛野大堰(かどのおおい)と秦氏 東昌夫『秦氏族の研究』(2018)は、秦氏の土木技術を工学的視点から分析し、 葛野大堰の築造に秦氏が深く関与した可能性 を示しています。 このブログでは、秦氏の行った土木工事については、 第412話: ヤマタノオロチは淀川~茨田堤2 第344話: 聖徳太子伝説~堀江と茨田堤 第806話: 五社水路と三島溝咋耳 第807話: 邪馬台国と栗隈大溝(くりくまのおおうなで) などで書いています。 第826話: 保津川と葛野大堰 ■ 九州北部の秦氏 同書では、九州北部にも早期の秦氏集団が存在し、 豊国(豊前)に「秦王国」と呼べる
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1月11日読了時間: 6分


海石榴市・長谷寺・補陀落
第923話 #仏教伝来 日本書紀には、「隋の使者である裴世清が難波津から小墾田宮に入った。その日に飾りつけた馬75匹を派遣して海石榴市の衢で迎えた」とあります。海柘榴市は飛鳥時代も都の外港の機能を果たしていたとみられています。 実は、当時の奈良県には、かなり大きな湖がありました。このことは、 第26話: 奈良に湖 もう一つの古代高速道路か ですでに述べています。 奈良県は、四方を山に囲まれた窪地です。 雨水が溜まりやすく、 河川が放射状に集まり、 大和川が唯一の出口です。 古代の人々はこの奈良盆地湖を水運として利用しました。 海石榴市はまさにその「出口に向かう水系」の結節点に位置します。 海石榴市は初瀬川(大和川上流)に接し、大和と難波を結ぶ水陸交通の要衝でした。 隋使・裴世清の一行は難波から大和川→初瀬川を遡り、海石榴市に至ったと考えらています。海石榴市は水運と陸路(上ツ道・横大路など)の結節点でもありました。 その上流には、初瀬川・寺川・飛鳥川などが集まっています。 古奈良湖の跡地は長く湿地帯で、古代にも洪水が多かったことが記録されていま
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1月10日読了時間: 6分


邪馬台国は河内湖:長柄船瀬
第922話 第909話: 真舌媛:孝霊天皇妃は台与 では、次のように書きました。 中世の味舌庄は、甘舌・真舌とも書かれ、淀川下流の有力な分流の1つである三国川に面し、対岸の地、鯵生(あじふ)野は、住吉大社神代記の「長柄船瀬本紀」にみえる、遣唐使船に荷物が積み込まれたという、長柄船瀬(港津)の地に比定されています。 *味舌姫は、記紀では孝霊天皇の后とされています。 長柄船瀬は、淀川下流域の大規模な古代港湾で、住吉大社神代記では、遣唐使の調物積載地として記述されています。 住吉大社神代記:長柄船瀬本記には、「船瀬泊。欲遣唐貢調使調物積船舫造泊天皇念行時。大神訓賜。我造長柄船瀬進矣。」とあります。天皇が遣唐貢調使の船の泊を造ろうと思った時、(住吉)大神が、長柄に船瀬の泊まりを造って進(奉)じたということです。 荷物は長柄で積み、それから住吉に航行して住吉の神に航海成就を祈願してから遣唐使など人々を乗せて出航したのでしょう。 ここで重要なことは、当時の大阪は、ほとんど河内湖という巨大な湖だったといことです。つまり、難波津、住吉(住之江)とは、河内湖で船で
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1月9日読了時間: 5分


小野妹子 国書紛失事件
第921話 多利思比孤(タリシヒコ)5 日本書紀によれば、小野妹子(隋での名は蘇因高)は、推古天皇15年(607年)に通訳の鞍作福利らと共に大唐(当時の隋)に派遣されます。と呼称された妹子は、推古天皇16年(608年)4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国しますが、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告します。その罪は流刑に相当するものであったが、推古天皇によって恩赦され罪に問われませんでした。こののち妹子は冠位:大徳にまで昇進しています。この視点は、実は近年の歴史学でも重要な論点になっています。 日本書紀では、小野妹子は隋の返書を持ち帰った。しかし「紛失した」と報告した 理由は書かれていない。返書の内容も残っていない。 つまり、返書の実物は存在しない。にもかかわらず、日本書紀は「返書は確かにあった」と前提して叙述を進めます。 この小野妹子の国書紛失事件は、 隋書では、倭王は多利思比孤(タリシヒコ)となっていますが、日本書紀では、推古天皇(女性)が天皇となっている件と関係があると思われます。 これは、大和王権の外交的威信を高めるた
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1月8日読了時間: 5分
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