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地名から読み解く邪馬台国


片野物部~岡山県津山
皆さんは、大阪府交野市に【倉治(くらじ)】という地名があるのをご存知でしょうか? この地名は、古事記にも登場する『高倉下(たかくらじ)』、すなわち『大彦(おおひこ)』、『台与(とよ)』といった、古代の重要な人物と関係があると言われています。 さらに、同じく交野市内には【私市(きさいち)】という地名もあります。この『私市』は、かつて『甘野(あまの)』と呼ばれていた時期もあり、これが『アマ・アメ』といった古代の呼称の起源ではないか、と私は考えているんです。つまり、この交野市が、台与一族の本拠地、ひいては古代日本の中心地の一つだった可能性を示唆しているのかもしれません! 興味深いのは、饒速日(ニギハヤヒ)の降臨地としても交野市が挙げられていることです。もしかしたら、あの饒速日も、この地、そして台与(第33代推古天皇とも言われていますね!)と深い関わりがあったのではないでしょうか。交野ヶ原の伝説や、星の降る町といったロマンあふれる伝承も、この地の古代史の深さを物語っているようです。 私が提唱する説では、かつての河内国交野郡(現在の交野市、枚方市、寝屋川市
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3月15日読了時間: 7分


皇室と大麻
第986話 新天皇が即位されたときに行われる「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」では、大麻(おおあさ)が祭祀具としての重要な役割を果たします。 新嘗祭では、新天皇が神々に新穀を捧げ、国家の安泰と五穀豊穣を祈るります。古代から続く、儀式に欠かせないのが、麻と絹で織られた二つの布です。 それを、繪服(にぎたえ)と 麁服 (あらたえ)といいます。 麁服(あらたえ)は、大麻で織られた布で、繪服(にぎたえ)は、絹で織られた布です。 ・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨の際に身につけていたのが、大麻で織られた布、麁服でした。瓊瓊杵尊は台与です。~ 第436話: 瓊瓊杵尊:ニニギは台与 ・ 第925話: 髪長姫(1)道成寺 で書いた 諸県君牛の娘である 髪長姫 は 鹿皮 をまとって鹿子水門に現れました。 天皇家や神社は麻との関係が深いのです。 麻は生命力が強いですし、その繊維は殺菌力が強く、 ヘソの緒を縛りますし、産着に麻の葉の模様を染めたりします。 巫女の髪は麻紐でしばります。 天皇や神官の冠に麻紐を巻くこともあります。 熨斗袋に麻をかけたりしますし、
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3月14日読了時間: 5分


下総と忌部氏~千葉県
第985話 前回: 物部氏について(6):匝瑳物部氏 では、 匝瑳(そうさ)物部氏は、下総国匝瑳郡に本拠を持つとされていますので、「そうさ」は下総(しもふさ)が、転じたものと思われます。下総は下菟とも表記されます。「菟」は、 菟 道稚郎子の 「菟」で、「宇治」、 ウツシコオ(内色許男命) の「内」と同じ意味を持ちます。 第895話: 宇治神社と宇治上神社 で、宇治神社は、宇治は菟道からきたのであり、それは兎(ウサギ)から来たと公式に説明されています。そして、大分県にある宇佐神宮の宇佐も兎であるとされています。 ~宇佐(菟狭)氏の末裔で、戦前まで宇佐八幡宮(宇佐神宮:大分県)の宮司を務めた家のご子息である宇佐公康氏は、菟狭は 兎 (ウサギ)から来た氏族名だと述べておられます。~第899話: 宇佐氏と辛嶋氏~宇佐八幡宮 「総」が 「菟」であるということは、上 総、下総は「 菟=ウサギ」の国ということになります。したがって、 第378話: 猿丸幻想(3)~宇都宮は兎の都 でも書いたように、「兎の国」とは、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の
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3月13日読了時間: 5分


物部氏について(6):匝瑳物部氏
第984話 匝瑳は「そうさ」と読みます。 匝瑳物部氏は、下総国匝瑳郡に本拠を持つとされていますので、「そうさ」は下総(しもふさ)が、転じたものと思われます。下総は下菟とも表記されます。「菟」は、 菟 道稚郎子の 「菟」で、「宇治」、 ウツシコオ(内色許男命) の「内」と同じ意味を持ちます。 第895話: 宇治神社と宇治上神社 で、宇治神社は、宇治は菟道からきたのであり、それは兎(ウサギ)から来たと公式に説明されています。そして、大分県にある宇佐神宮の宇佐も兎であるとされています。 ~宇佐(菟狭)氏の末裔で、戦前まで宇佐八幡宮(宇佐神宮:大分県)の宮司を務めた家のご子息である宇佐公康氏は、菟狭は 兎 (ウサギ)から来た氏族名だと述べておられます。~ 第899話: 宇佐氏と辛嶋氏~宇佐八幡宮 匝瑳物部は物部小事(もののべ の おごと)を祖とします。 続日本後紀は、布都久留の子の物部小事が坂東に進出し征圧し、その後裔が匝瑳物部氏であるとしています。日本後紀と続日本後紀に見える鎮守将軍は、いずれも匝瑳物部氏であったとされています。 平安中期に作られた和名
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3月12日読了時間: 5分


物部氏について(5):赤間物部
第983話 赤間物部は、筑前国宗像郡赤間(福岡県宗像市)と長門国豊浦郡赤間(山口県下関市)にいたとされています。 宗像と豊浦は共に、邪馬台国時代の海上交通の要衝です。 ・宗像は、 「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落、「 みなかた 」から変異したとするとする説もあります。 (福岡県宗像市の地名の由来説) 宗像氏 - Wikipedia 第337話: 阿多賀田須命~宗像氏 第312話では 宗像氏はタケミナカタ! としました。 タケミナカタは日本書紀では建御名方神と表記されますが、日本書紀以外の国史では 南方 刀美神(みなかたとみのかみ)と表記します。 南方 は大阪府の地名(大阪市淀川区)で、邪馬台国当時は河内湖と大阪湾(浪速)の要衝でした。 ・豊浦は、 第734話: 豊浦~豊浦宮・豊浦大臣 第735話: 杜屋神社~下関市豊浦町 で書いたように、台与(豊)との関係が深い地です。 下関市はかつて赤間関と呼ばれていました。下関市の名産品に赤間硯がり、この原料が赤間石です。長府には長門鋳 銭司 (すぜんじ・日本最古の貨銭「和同開珎(わどうかいほ
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3月11日読了時間: 5分


物部氏について(4):贄田は熱田
第982話 このところ連日、 贄田物部について書いています。 鞍手郡鞍手町新北に熱田神社が神社がありす。この新北(にいきた)という地名がが贄田(にぎた)と通じると、第980話: 物部氏について(2):贄田物部~鞍手 で書きました。 鞍手町誌は新北物部が倭男人の配下として参戦したと述べており、新北物部は「贄田物部」のことである」と書いています。倭男人とはヤマトタケルのことです。 ヤマトタケル日本武尊は、古事記では倭建命と表記されています。 そして熱田神社の「熱田:あつた」は、「 贄田:にぎた」に通じます。 額田王の万葉歌に「熟田津に船乗りせと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」という歌があります。ここでは、 贄田 (にぎた)は熟田津と表記されています。 熟田津(にぎたつ)とは現在の伊予の道後温泉付近とされています。 このブログの第906話 伊予湯岡碑:聖徳太子の嘘(2) では、道後温泉と聖徳太子=台与との関係について書きました。 そして 第907話: 石井源太夫・鳥羽宿禰は磐井=継体天皇 では、 熊本県小国市「わいた温泉郷」の一つ「岳の湯温泉」にほ
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3月10日読了時間: 4分


物部氏について(3):贄田物部~鞍手(2)
皆さん、こんにちは!「地名から読み解く邪馬台国」へようこそ。古代史のロマンを追い求めていると、時々「あれ?この地名、何か意味があるんじゃない?」って、ふと立ち止まることがありますよね。今回は、そんな歴史の糸をたどる旅の続きとして、あの物部氏に焦点を当てて、福岡県鞍手郡鞍手町を訪ねてみました。前回のブログでも少し触れましたが、この地には、私たちが知っている歴史とはまた違った、興味深い物語が眠っているような気がして、ワクワクしながら記事を書き進めたんです。 今回の探訪:鞍手の地で出会った神々と伝承 鞍手町には、熱田神社や八剱神社といった、前回の記事でもご紹介した神社の他にも、「古物神社(こぶつじんじゃ)」という、とっても気になる名前の神社があるんです。古(ふる)ということは、そう、古(いにしえ)の布留神(ふるのみこと)、そして物(もの)は物部(もののべ)を意味しているんじゃないか…?なんて想像が膨らみますよね。まさに、この神社の名前に、物部氏との繋がりを予感させるヒントが隠されているように感じられます。 古物神社の奥深さ 古物神社に祀られている神様も
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3月9日読了時間: 7分


物部氏について(2):贄田物部~鞍手
物部氏の謎を追って:贄田物部と福岡県鞍手の古代史 皆さん、こんにちは! 古代史のロマンを追いかける旅へ、ようこそお越しくださいました。今日は、あの「物部氏」にまつわる、ちょっとディープな謎に一緒に迫ってみたいと思います。特に、福岡県鞍手(くらて)という土地に焦点を当てて、そこに隠された古代の息吹を感じてみましょう。 鞍手の地と贄田物部 今回ご紹介する「贄田物部(にえだものべ)」ですが、彼らのいた場所は、現在の福岡県鞍手郡鞍手町あたりだと推定されているんです。この鞍手町、以前お話しした「御牧(みまき)」という地名があった水巻町とも隣接していて、このあたり一帯が古代から重要な地域だったことがうかがえますよね。なんだか、歴史の地図が目の前に広がるようです。 なぜこの北九州の地が、そんなに注目されてきたのでしょうか? それは、神武天皇(あるいは台与)がここへ来た理由にも繋がっています。そう、それはこの土地に眠る豊富な地下資源! そして、この地が「日下部(くさかべ)」とも関係が深いという点も、歴史の糸をたぐり寄せる上で、とっても興味深いポイントなんです
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3月8日読了時間: 6分


物部氏について(1):二田物部
古代の謎に迫る!「二田物部」のルーツを探る旅へようこそ 皆さん、こんにちは!歴史の深淵を覗くのが大好きな皆さんへ、今日はとっておきの話題をお届けしたいと思っています。 古代史、特に邪馬台国やその周辺の勢力に興味がある方なら、「物部氏」という名前は一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?彼らは、古代日本において非常に広範な地域に分布し、多くの支族を持っていたことで知られています。その中でも、今回は特に興味深い「二田物部(ふただのもののべ)」に焦点を当ててみたいと思います。 天孫降臨と物部氏 『先代旧事本紀』や『天神本紀』によると、「天物部」というのは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降られた際に従った集団や神々のことを指すそうです。そして、その「天物部」の一つとして「二田物部」の名が見られます。この名前を聞くだけで、なんだかワクワクしてきませんか? 「二田」という地名に注目すると、和泉国(現在の大阪府あたり)の上泉郡二田郷にあった曽禰神社の境内社に「二田物部神」が祀られているという記録があります。さらに、越後国(現在の新潟県あたり)の刈羽郡
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3月7日読了時間: 6分


オケとヲケ(7):入れ墨と久米氏・隼人舞
皆様、いかがお過ごしでしょうか。古代史のロマンを追いかける日々、また一つ、胸躍る発見がありました。 古代の謎を解き明かす:入れ墨と伝承の交差点 先日、私のブログ「地名から読み解く邪馬台国」で、古(いにしえ)の物語「オケとヲケ」にまつわる興味深い記事を執筆しました。今回のテーマは、なんと「入れ墨」と「久米氏」そして「隼人舞」…。歴史の断片が、まるでパズルのように繋がっていく様子に、私自身、改めて興奮を抑えきれませんでした。 『日本書紀』によれば、皇子であるオケとヲケが山中を抜けて「山城の苅羽井(かばた)」という場所に着いたとき、顔に「入れ墨」をした男が現れたといいます。そして、その男は彼らの乾飯を奪い去った、と。この「入れ墨」という記述、当時の歴史書としては非常に珍しく、私の探求心を深く刺激しました。 「古事記」の記述から 『古事記』の安康天皇の条を見ても、同じような記述があるんです。市辺王の王子であるオケ王と袁祁王(ヲケ王)が、ある混乱を聞きつけて逃げ去る途中、山代の苅羽井(かばい)で食事をしていたら、「面黥(めんげい)ける老人」が現れた、と
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3月6日読了時間: 6分


オケとヲケ(6):志染の石室
志染の石室に隠れた?オケとヲケの物語、その真実とは - 古代史の謎に迫る 歴史の不思議って、なんだかワクワクしますよね!今回は、私が以前から気になっていた、兵庫県三木市にある「志染(しじみ)の石室」の伝説について、ちょっと深掘りしてみようと思います。この石室、ただの古い場所じゃないんです。昔々、皇位継承争いに巻き込まれた皇子たちが、身を隠したと言われている、まさに歴史のドラマが詰まった場所なんですよ。 播磨国風土記によると、雄略天皇の時代、皇位継承争いで命を落とされた市辺押磐皇子の二人の王子、袁奚(ヲケ)と意奚(オケ)が、この志染の石室に隠れ住んだとされています。日本書紀では「縮見山石室」と書かれていて、中にある湧き水は、光る藻が生えていて、水面が金色に輝くことから「窟屋(いわや)の金水」と呼ばれていたそうなんです。想像するだけで、神秘的でしょ? 彼らは「丹波小子(わらわ)」と名乗り、吾田彦(あだひこ)と一緒に、この地の有力者である「縮見屯倉首(しじみのみやけおびと)」に仕え、牛馬の世話をしていたとも伝えられています。まるで時代劇のような物語
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3月5日読了時間: 7分


オケとヲケ(5)は日十大王
「日十大王」の謎に迫る!隅田八幡神社鏡の奥深き世界へようこそ 古代史の謎解きに心を躍らせる皆さん、こんにちは! 私、日丸(ひでまる)が、いつも皆さんと一緒に古(いにしえ)のロマンを探求していますが、今回は特に私自身もドキドキさせられた、ある宝物についてお話しさせてください。それは、和歌山県橋本市にある隅田八幡神社に大切に納められている、あの「人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう)」のことなんです。 この鏡、ただ古いだけじゃないんですよ。鏡の裏側には48文字もの金石文(きんせきぶん)、つまり文字が刻まれているんですが、これがまた、今の私たちには計り知れないほど貴重な手がかりに満ちているんです。日本古代史はもちろん、考古学や日本語の歴史を研究する上でも、欠かせない国宝となっているんですよ。 その金石文には、こんなふうに書かれていると解読されています。 「癸未(きび)の年八月、日十大王(ひ とのおおきみ)の年、男弟王(おとこの いもこのおほきみ)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻(しま)が長寿を願って、開中費直(かわちのあたい)、穢人(えじん、渡
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3月4日読了時間: 7分


オケとヲケ(4):楠葉(大阪府枚方市)
古事記の謎を解き明かす:オケとヲケの足跡を追って(大阪・枚方市) 今回は、皆さんもきっとご存知の「古事記」に記されている、ちょっと不思議な兄弟、オケとヲケの物語を深掘りしてみました。いつもは遠い過去の話に思えるかもしれませんが、彼らの足跡をたどっていくと、驚くほど身近な場所へと繋がっていくんです。まるでタイムスリップしたかのような気分になれる、そんな旅のご報告ですよ。 丹波から山代へ、そして大阪・枚方市へ 古事記によれば、オケとヲケの兄弟は、丹波の地を出て、山代の苅羽井(かりばゐ)という場所へ向かったとされています。この苅羽井というのは、現在の京都府城陽市にある、水主神社境内にある樺井月神社のあたりを指すとも言われているんですよ。さらに調査を進めると、この水主神社自体も、かつては別の場所にあったものが、川の氾濫をきっかけに現在の場所へ遷座したという歴史があるんです。こうした文献と伝承が重なる様は、まさに歴史のロマンそのものだと感じませんか? そして、今回のブログ記事では、この物語がどのように大阪府枚方市、特に楠葉(くずは)という地域と結びつくのか
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3月3日読了時間: 7分


オケとヲケ(3):丹波
第974話 第972話: 億計(オケ)と弘計(ヲケ) で書いたように、 億計(オケ)と弘計(ヲケ)の 二人は播磨国に行く前に、て丹波国与謝郡(京都府与謝郡)に隠れ住んでいたことが分かりました。 日本書紀には、安康天皇が暗殺され、その後に二王の父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺された。子の億計王(仁賢天皇)は弟の弘計王(顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国餘社郡に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて 丹波小子(たにはのわら) はと称した。とあります。 なぜオケとヲケの二人は、丹波に居たのでしょうか。 丹波の地名の由来として、 「諸国名義考」には「田庭なるべし」とあります。これは、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲を作っていた広く平らな場所の意味だといいます。昔は赤米が主流だったので、 「赤い米がたわわに実って風にそよぐさまが赤い(丹)波のようみ見える」というように解釈されています。 香川県の東かがわ市にある 水主神社 (みぬし)の社伝では、「倭迹迹日百
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3月2日読了時間: 5分


オケとヲケ(2):水主神社
【古代史の謎】オケとヲケの足跡を追って〜水主神社に迫る!〜 皆さん、こんにちは!歴史の隠された物語を探求するのが大好きな皆さんへ、今日はちょっと特別な、歴史のロマンに満ちたお話をお届けしたいと思います。以前、億計(オケ)と弘計(ヲケ)という二人の人物について触れましたが、今回はその二人が、播磨国へ向かう前に、丹波国(今の京都府与謝郡あたり)に身を隠していたという、さらに興味深いエピソードを掘り下げていきます。 「オケとヲケ(2):水主神社」 古事記によると、この二人は丹波国から山城(今の京都府南部)の苅羽井(かりばい)という場所へやってきました。そこで、顔に刺青のある老人と出会うのですが、その苅羽井というのが、現在の綴喜郡樺井(かばい)のこと。さらに驚くべきことに、この場所は、城陽市水主宮馬場にある「水主神社」の境内に、かつてあった「樺井月神社」と深い関わりがあるようなのです。 社伝によれば、樺井月神社は元々別の場所にあったそうですが、川の氾濫に遭い、江戸時代に水主神社へ遷宮されたとか。歴史の移り変わりと、そこに息づく人々の営みを感じますね。
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3月1日読了時間: 6分


億計(オケ)と弘計(ヲケ)
億計(オケ)と弘計(ヲケ) - 謎多き古代の兄弟 皆さん、こんにちは! 「地名から読み解く邪馬台国」へようこそ。 今日は、古代史のロマンを掻き立てる、ある兄弟のお話をご紹介したいと思います。彼らの名は、億計(オケ)と弘計(ヲケ)。仁賢天皇と顕宗天皇として知られるこの二人の皇子の生涯には、権力争い、逃亡、そして隠遁という、まるで物語のようなドラマが隠されているんです。私自身、この二人の足跡を追うたびに、古代の激動に思いを馳せずにはいられません。 権力争いの渦中、二人の皇子 物語は、彼らの父である市辺押磐皇子(いちべのおしいわのみこ)が、権力争いの犠牲となり雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に命を奪われたことから始まります。まだ幼かった億計(7歳)と弘計(6歳)は、父の側近であった日下部使主(くさかべのむらじおみ)という人物の機転により、間一髪で難を逃れることができたのです。これは、まさに命懸けの脱出行でした。もし彼らが捕まっていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。 丹波国での潜伏 父を失った二人の皇子は、安全な場所を求めて丹波国(たんばのく
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2月28日読了時間: 7分


日下部:九州(2)
九州に眠る「日下部」の系譜をたどる旅へ! 〜阿蘇・高良、そして肥前の伝説 皆さん、こんにちは!歴史の探求者、〇〇(あなたの名前やブランド名)です。 いつもブログ「地名から読み解く邪馬台国」を読んでくださって、本当にありがとうございます! 今回は、前回に引き続き、九州に根差す「日下部」氏族の謎に迫るお話をお届けします。歴史の糸をたぐりながら、一緒に古代のロマンを感じてみませんか? 九州の「日下部」、さらなる奥地へ 前回のコラムでは、日向や水沼にあった日下部氏族について触れましたよね。でも、九州にはまだまだ、知られざる日下部氏族が潜んでいるんです。それが今回ご紹介する、阿蘇と高良(たから)の地に関わる方々です。なんだか、ワクワクしませんか? 阿蘇神社の神官を務めた草部吉見氏族も、日下部として数えられています。そして、筑後(ちくご)の国、高良大社に仕えた日下部(草壁)氏も、この物語の重要な一部なんですよ。この氏族が、阿蘇の母なる神様、「蒲池比売(かまちひめ)」を祭っていたというから、また興味深いんです。 この蒲池比売、実は「鯰(なまず)」を眷属とする「
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2月27日読了時間: 6分


日下部:九州(1)
皆さん、こんにちは!古代史や歴史の謎に心が躍る皆さん、そして邪馬台国について熱く語り合いたい皆さんへ。今日は、私が最近見つけた、とっても興味深い地名のお話をお届けしたくて、筆を執りました。それは「日下部」という名前。この響き、どこか懐かしく、そして日本の始まりを感じさせると思いませんか? 地名から読み解く、九州「日下部」の深遠なる歴史 「日下」って、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか? 私が調べていて特に心を惹かれたのは、神武天皇が河内湖から上陸した地が「日下の蓼津(たてつ)」と呼ばれていたこと。さらに、日向(ひゅうが)からやってきた神武天皇が「日下(ひのもと)=日本の天皇」と称されたという神話の一節なんです。この「日下」という響きが、どうして「日本」という国の成り立ちや、天皇という存在と深く結びついているのか、想像するだけでロマンが掻き立てられますよね。 この「日下部」という姓、日本各地にその痕跡があるそうですが、今回特に注目したのは九州での話。ブログ記事では、日向から阿蘇にかけて見られる「日下部氏」のルーツに迫っています。古事記序文に「
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2月26日読了時間: 6分


百々(どど)と稲辺遺跡~滋賀県彦根市
皆さん、こんにちは! 今回は、滋賀県彦根市に伝わる「百々(どど)」という地名と、そこにひっそりと息づく稲辺遺跡について、私の発見と感動をお伝えしたくて筆を執りました。古代史の謎、特に邪馬台国に思いを馳せる方なら、きっとワクワクするお話だと思いますよ。 「百々」という響き、なんだか不思議で魅力的だと思いませんか? この「百々」という地名、一般的には「どど」と読むそうなんです。古文書では「百」を「おお」、「多く」という意味で使うことがあったそうで、「百々」はつまり「たくさんの」とか「数多くの」といった、豊かさや広がりを感じさせる意味が込められていたそうですよ。なんだか、古代の人々の暮らしや、その土地への願いが伝わってくるようで、ロマンを感じませんか? この地名は、昔から地名や姓として受け継がれてきたらしく、地域社会や家族の歴史と深く結びついているんですね。武士や貴族の家系にも見られることがあると知って、さらに興味が深まりました。 そして、この「百々」という地名が、彦根市の稲辺町や彦富町に、力強くその存在感を示しているんです。百々田第二公園の近くには、
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2月25日読了時間: 7分


瓜破遺跡は邪馬台国~大阪市平野区瓜破
瓜破遺跡、それは邪馬台国への扉か? こんにちは!歴史のロマンを追い求める皆さん、お元気ですか?今回は、私自身も現地を訪れたかのような興奮を覚えた、大阪・平野区にある「瓜破遺跡」について、皆さんと一緒に深掘りしていきたいと思います。この遺跡が、あの謎多き邪馬台国と繋がっているかもしれないなんて、想像するだけでワクワクしませんか? 驚きの発見、瓜破遺跡とは? 大阪市平野区の瓜破(うりわり)という場所をご存知でしょうか? このあたりは、かつて大和川が流れていた場所で、弥生時代から人々が暮らしていた痕跡が数多く見つかっています。私も、この土地にそんな古い歴史が息づいているのかと思うと、なんだか心が躍るんです。1939年の発見以来、この瓜破遺跡からは、弥生時代前期から後期にかけての土器や石器、木器、さらには銅の矢じりまで、たくさんの貴重な遺物が出土しています。 特に注目すべきは、中国・王莽(おうもう)時代の「貨泉(かせん)」という銅貨が出土している点です。これが発見されたということは、当時のこの地が、遠く中国大陸とも交流があったことを示唆しているんですね。
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2月24日読了時間: 6分
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