筑紫は、守口市?
- tootake
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第934話
筑紫とは、福岡県で、南部を筑後、北部を筑前、中部を筑豊とされています。古事記・日本書紀では、神武天皇の東征の出発の地とされています。
「筑紫」は、我が国の神話および国家成立における歴史上、重要な意味を持つ地名です。
①伊邪那いざな岐ぎの 尊みこと が 禊みそぎ 払はらいを行った場所が「筑紫の日向ひむか」である。
③「筑紫の日向」の言霊学的解釈
「筑紫(つくし)」は、その語源は「尽つくす」から来ており、四方八方に広がる(尽
くす)という意味である。そして、「日向(ひむか)」の「日」は、「陽」すなわち「太
陽」を表しており、「向」は、そのまま「向かう」という意味になる。それゆえ「日
向」とは、「太陽が向かう」という意味になり、「筑紫の日向(つくしのひむか)」で
「太陽の光が尽十方(四方八方)に広がる大宇宙」を指す言葉となる。
④天孫降臨の地「筑紫の日向」
瓊瓊杵尊:ニニギノミコトが、高天原から天下ってきた場所が「筑紫の日向」です。
記紀では「瓊瓊杵尊が筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天
降る」と記述されています。
古事記、日本書紀の成立時期(700年初頭)には「筑紫」が九州全体を指す言葉として使われていたと推察できます。しかし、筑紫国の名前が現れるのは、どんなに早くても西暦280年です。卑弥呼の生きた時代以前は北九州を筑紫とは呼ばれ無かった。~筑紫国の起源 | 日本の歴史と日本人のルーツ
魏志倭人伝は280年-297年に発行されたが、この280年時点までは筑紫国は記述されていません。
前回:産湯稲荷神社:大小橋命で書いた吾平津媛(あひらつひめ)は日本書紀よれば、日向国吾田邑と書かれており、このことから日向国の吾田邑は鹿児島の地名と思われています。
このことにより、日向国とは鹿児島とする研究者もいます。
しかし、前回:産湯稲荷神社:大小橋命では、吾平津媛は、大阪市天王寺区の出身としました。
ちなみに日向国は存在しません。
古事記では、 「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」、 「日向の高千穂」
など、「日向(ひむか)」という地名は頻出しますが、律令制的な「日向国」という国名表記は一度も登場しません。
日本書紀には、宮崎県の資料によれば、日本書紀:景行天皇17年条に次のような記述があるとされています。「直向於日出方、故號其国曰日向也」
(ひのいづる方に向いているので、その国を日向という)
これは「日向」という国名の由来説話で、日本書紀が明確に「日向国」という行政的名称を扱っていることを示します。また、推古天皇20年条には、「譬武伽(ひむか)」という表記があり、 これも日向を指す語とされています。
このブログでは日向は守口市だとしています。日向は守口市だけでなく他にもありますが、守口市は、邪馬台国(大和朝廷)にとっても重要な地です。
守口市の高瀬は、淀川の旧河道(大庭・鞆淵・大江と連続)に位置し、 長柄船瀬の東側に広がる水運地帯でした。 長柄船瀬の港域=淀川水運の巨大ハブつまり、長柄船瀬は、難波宮の外港として機能した大規模な内港で、淀川水運で運ばれた物資が集積・積み替えされる場所でした。
第922話:邪馬台国は河内湖:長柄船瀬
筑紫(つくし)とは、「尽くし」で「行き尽くす」という意味で「果(はて):端(はし)」を表す言葉です。
元々は、卑弥呼が居た頃の邪馬台国の「果(はて):端」が守口で、台与の時代になって邪馬台国が拡大し、九州が日本=邪馬台国の「「果(はて):端」になったことから、来た九州辺りが「筑紫:ツクシ(行きつくした地)」ということになったのです。
ちなみに薩摩(さつま)の「つま」は、南の極限地、東(あづま)は東の極限地という意味です。台与の時代の日本=邪馬台国は、東(吾妻)と薩摩の間であったのです。
関連項目:第452話:高瀬の渡し
:第296話:神武東征は守口から?!
:第529話:江戸川乱歩と台与~守口市八島
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
八雲も守口市の地名です。守口市にある光明寺には、木造十一面観音立像があります。守ロ市内に残る最古の仏像で、八雲北町の光明寺の本尊で、右手を下げ、左手を上げて蓮華瓶を持つ、俗にいう長谷式の十光明寺には、重要文化財の一面観音立像があります。光明寺は、八雲神社の宮寺です。大同元年(806年)、空海(弘法大師)の開基と伝えられ、八雲神社の宮寺です。




神功皇后の妹の淀姫命と虚空津比売命。火明命を祖とする豊姫の一族。 – 古代史考証 神武天皇と卑弥呼の時代 著者 佐藤洋太 (kodaishikoushou.com)
<台与シリーズ>
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