top of page

藤原不比等と田辺氏

  • tootake
  • 9月22日
  • 読了時間: 6分

第813話


藤原不比等(ふじわらふひと)は、田辺史大隅(たなべ の ふひと おおすみ)の家にしばらく匿われていたとする説があります。不比等という名前も「史:ふひと」から、貰ったと思われます。


田辺史氏は、河内国安宿郷の田辺の地(大阪府柏原市国分町)を本拠地とする百済系の渡来氏族で、代表的な人物として、『日本書紀』巻第十四、及び『新撰姓氏録』「左京皇別」に現れる田辺伯孫、姓氏録、左京皇別、下の上毛野朝臣条や、日本書紀に名前が掲載されている田辺史鳥(たなべ の ふひと とり)、壬申の乱の近江軍の将であった田辺小隅などがあげられます。尊卑分脈;藤氏大祖伝には、藤原不比等を育てた田辺史大隅の名も記されています。


第757話:甲斐国と甲斐田(枚方)では、「田辺史広足(たなべのふひと ひろたり)という人物がいます。奈良時代の官人で、天平3年(731年)に甲斐国の国司(甲斐守)として任官されています。続日本紀では、甲斐国における最初期の国司として知られています。」と書いています。


田辺氏の本拠は河内国安宿(あすかべ)郡、現在の柏原市田辺付近で間違いないようですが、摂津国住吉郡、現在の大阪市東住吉区田辺付近にも居住していました。北田辺には田辺廃寺(下に写真)等の遺跡もみられます。


第757話:甲斐国と甲斐田(枚方)では、「山梨県が甲斐と呼ばれるのは、枚方市の甲斐田に由来するのではないかと思うのです。「交野ヶ原の詳細」と検索したら上記の 河内国交野郡資母郷(下郷) と出てきたのです。河内国安宿郡資母郷資母郷(しもごう)は、大阪府柏原市で河内国交野郡資母郷(下郷) は大阪府枚方市です。柏原市は枚方市から移動したというのは、単なる私の思いつきではないようです。」とも書きました。


田辺氏は、百済に帰化した日系渡来人で河内国安宿郡田辺(大阪府柏原市)が発祥とされていますが、山城国の田辺氏は、綴喜郡田辺(京都府京田辺市)発祥で、紀伊田辺は、和歌山県田辺市)発祥です。


地名としての、和歌山県の田辺は、熊野本宮大社があります。京田辺の近くには、木津川(泉川)が流れています。~第543話:熊野の神々は、、、

前回:泉国:大鳥大社でも書いたように、木津川(きづがわ)は、三重県および京都府を流れる淀川水系の支流です。この木津川は、かつて泉川(いずみかわ)と呼ばれていました。伊豆(いず)という地名のもとになったなったのは泉川(いずみ)のいずです。木津川(きづがわ)周辺には、椿井大塚山古墳、玉川鉱山、大住など邪馬台国と関わりのある重要な川です。


そして、河内国安宿郡田辺(大阪府柏原市)は、元々、河内国安宿郡資母郷資母郷(しもごう)は、大阪府柏原市で河内国交野郡資母郷(下郷) は大阪府枚方市です。この大阪府柏原市は、崇神天皇のときにパンデミックで、枚方市から柏原、橿原へ移転来てしたと思うのです。橿原は神武天皇が即位したとされると地です。このブログでは、神武天皇(=崇神天皇)は台与ですから、台与は、枚方市の柏原で即位したとしています。


何が言いたいかというと、田辺氏も台与と行動を共にしていた一族であるということです。

和歌山→枚方→柏原という流れは、スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)が和歌山県の名草から、木津川を通り、京都府の男山市の内里に至った行程と同じです。~hidemaru3375.com/post/ヒコユキからウツシコオへの過程


ですから、田辺氏に養育されたと思われる藤原不比等は、台与の事をよく知っていたと思われます。つまり、日本=大和=ヤマト=邪馬台国の最初の大王(天皇)が台与だということを十分に理解していたはずです。


しかし、日本(大和)の最初の天皇が、13歳の少女では、まずいと思ったのです。

正式な日本史を作るには、それでは恰好が付かない(権威が保てない)と思ったのでしょう。


日本の最初の天皇としては、饒速日(ニギハヤヒ)のような歳をとった男性が望ましいと思ったのです。


饒速日と台与は、全く正反対の風貌です。台与は13歳の少女で、饒速日年老いた男性です。そして、念のために日本を統一したという名目で神武天皇も創作しました。


そうすることによって、日本という国を重々しく伝統のある国だという印象操作をはかったのです。


 田辺氏には、「史(ふひと)」という姓(かばね・古代の称号)が与えられています。「史」はフミヒト(書人)から転じたもので、大和朝廷の政治組織の中で代々文筆・記録を職務とした家柄の人々をさす呼称が制度として定着し、田辺氏がその職にあたっていたことを示しています。渡来系である田辺氏は、漢文の解読や中国・朝鮮半島の法令や記録などの知識をいかして文章の作成、国の政治・経済・文化などの紹介や解説をしていたのでしょ

う。



これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>



北田辺(大阪府柏原市田辺1丁目)には田辺廃寺等の遺跡もみられます。藤原氏の繁栄の基礎を築いた藤原不比等を育て、国の基本的な法として701年に制定された大宝律令の編纂にかかわるなど、一族は中央で活躍しました。


ree



 
 
 

1件のコメント

5つ星のうち0と評価されています。
まだ評価がありません

評価を追加
tootake
9月21日
5つ星のうち5と評価されています。

<台与シリーズ>

hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)

https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)

https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与

https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇

https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??

https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山

hidemaru3375.com/post/台与と秦氏  敏達天皇は台与(豊) 

衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!

孝昭天皇は台与:日原は目原  飯豊王女は台与(トヨ)なのか?

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ    大宜都比売(おおげつひめ)は台与 

倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ??  神八耳命は台与(豊)

饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作  台与は饒速日②~交野市倉治

小楯姫は台与:小楯は枚方   四道将軍:日子坐王は台与!

少彦名大神(スクナヒコ)は台与!  大彦は台与!??

ウマシマジは台与!    阿蘇都媛は台与

沼河比売は小楯姫=台与  タケミカヅチは台与!!

ヤマトタケルは台与  瓊瓊杵尊:ニニギは台与

継体天皇はトヨ(台与)??!  継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社

継体天皇は台与3~田井(寝屋川市)  英彦山と台与

山部赤人は台与!  八幡神は台与!!

とよ(乎止与命・台与・臺與)  台与の物語

いいね!
bottom of page