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羽束物部:物部氏について(8)

  • tootake
  • 2 時間前
  • 読了時間: 6分

第988話


数年前から息子が洛南(京都市)で一人暮らしを始めたので、国道171で洛南と枚方市を何度も行き来するようになりました。途中、国道171が名神高速道路の下を潜るあたりが羽束師(はつかし:京都府伏見区)です。


羽束師の地名は、古代の職業集団に由来しています。

和名類聚抄によると、山城国乙訓郡と摂津国有馬郡に羽束郷が属していたことが知 られています。前者は京都市伏見区羽束師付近,後者は兵庫県三田市の北・東部から宝塚市波豆 にかけての一帯がです。平安時代末期の高山寺本ではそれぞれ「波津加之」「波 都加之」、室町時代中期の大東急記念文庫本では「波豆賀之」「波都加之」という注記が付 されています。これらによると,両者ともに「ハツカシ」ないしは「ハヅカシ」と読まれ ていたことになります。


物部氏は軍事集団で、武器の製造を行っていたことはよく知られています。

物部氏の阿都*における邸宅の近くに弓削氏や矢作氏が居住しているおり、 物部氏と弓削氏の同祖関係,および守屋の母が弓削氏出身で日本書紀では、物部弓 削守屋連とあらわされていることなどから、「物部氏は阿都を拠点とし,近隣の弓削氏や矢作氏を配下に置いて,王権の武器生産を管轄していた」と推論されています。


*阿都は河内国渋川郡跡部郷(大阪府八尾市跡部)周辺で、八尾市亀井町にある跡部神社(あとべ)は、物部守屋の別業(別荘)があったと伝えられています。


矢作・倭鍛部・羽束物部といった箭(弓矢の竹の部分)の製作に関わった氏族と物部氏との密接なつながりが明らかとなっています。物部尾輿や守屋はこれら 氏族を率いて,ヤマト王権の弓矢の生産にを行っていたのです。


古くは「泊橿部(はつかしべ)」や「泥部(はせつかべ)」と呼ばれる、瓦や土器、石灰の製作に携わる技術集団が住んでいた地域でした。この「はつかしべ」が時代とともに「はづかし」と読み替えられ、漢字「羽束師」が当てられたのです。


令集解:職員令土工司条に引かれる穴記によれば、宮内省被管の土工司に属する伴部 ・泥部は,古くは「波都加此之友造」と呼ばれていたとされており、山城国乙訓郡と摂津国有馬郡の2つの羽束郷との係わりが指摘されていました。とされています。


新撰姓氏録;摂津国皇別には、羽束首は、天足彦国押人命男、彦姥津命の後とする書かれています。天足彦国押人命男、彦姥津命は台与のことだと思います。天(あま)、足、彦、押(=忍)は、台与もしくはウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王=難升米のキーワードであることはこのブログで何度も書いてきました。


羽束は、泥部(はつかしべ)とも表記されます。羽束師の近くには桂川が流れていますが、桂川の畔には良質の泥土があったそうで、その泥土が瓦を作るには適していたため、ここで瓦造りが盛んに行われていたとされています。瓦や石灰を焼いていた技術集団があったとされていますが、その「はつしかべ」が住んでいたのがこの地だということで、いつしか「はつかしべ」が「はづかし」と読み代わり、それに漢字が当てられ「羽束師」となったと言われています。


この付近には、灰方・灰谷・ 出灰という地名が見受けられます。

出灰については、宝暦4年(1754)成立の山城名跡巡行志:乙訓郡では,出灰村の上方に出灰山があり,昔そこから石灰を貢上していたと書きつづられています。このあたりで石灰が採取されていたことは間違いないようです。大原野(京都市西京区)の一帯は石作郷の地で、石棺の製作に携わった石作集団の居住にちなむ郷名です。


羽束は、泥部であるとすると羽束物部は、弓ではなく石棺や土壁を作っていた集団だったようです。


五十瓊敷皇子に与えられた10箇の品部の1つとして泊橿部(はつかしべ=羽束師)がみえ、泊橿部は、日本書紀の垂仁天皇39年に「泊橿部等并せて十箇の品部もて五十瓊敷皇子に賜う」という記録が残っており、令集解:職員令には「泊橿部とは古の波都加此伴造を云う」と記されています。五十瓊敷皇子は台与です。


※摂津国有馬郡に羽束郷があるのは、台与が有馬にいたことがあるからでしょう。

第822話:有馬温泉と台与

豊城入彦命~阿利真公(ありまのきみ)は、豊城入彦命の子孫とされています。


<物部氏>

第986話:物部氏について(7):片野物部~岡山県津山



これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




 
 
 

3件のコメント

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tootake
1時間前
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「羽束師」という地名、その奥深い由来とは?

実は、この「羽束師」という響き、ただの地名じゃないんです。国道171号線を走っていると、京都市伏見区のあたりで「羽束師」という標識を目にすることがあって、それがずっと気になっていたんです。この地名、古代の職業集団に由来すると言われていて、昔は「波津加之(はつかし)」とか「波豆加之(はづかし)」なんて読まれていたそうなんですよ。平安時代や室町時代の中期には、「波津加之」や「波豆賀之」という記録も残っていて、これらの注記からも、当時の人々が「ハツカシ」あるいは「ハヅカシ」と読んでいたことがうかがえます。このように、地名一つにも歴史が息づいているのを感じると、なんだかわくわくしませんか?

物部氏と「羽束師」の意外な繋がり

そして、この「羽束師」という地名が、あの有名な物部氏とどう関係しているのか? 物部氏といえば、古代の軍事氏族として、武器の製造にも携わっていたことで知られていますよね。ブログ記事では、物部氏の拠点だったとされる「阿都(あつ)」の近くに、弓削氏や矢作氏といった氏族が住んでいたことがわかっているんです。さらに、守屋(もりや)の母が弓削氏の出身であったことからも、物部氏と弓削氏の間に深い繋がりがあったことが示唆されています。このように、「羽束師」という地名が、物部氏とその周辺氏族の活動拠点と関連している可能性について、詳しく考察してみました。

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tootake
2時間前
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