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斑尾山の薬師伝説~泰澄と行基

  • tootake
  • 7月23日
  • 読了時間: 6分

更新日:7月23日

第752話 #泰澄 #行基 #邪馬台国


斑尾山(まだらおさん)は、長野県飯山市・信濃町との境にあります。北信五岳の中で標高が一番低く、飯綱山、戸隠山、黒姫山、妙高山と比べても斑尾山は際立って低いにもかかわらず、北信五岳の一つとなっています。斑尾山は、奥信濃の人々には古くから親しまれており、唱歌「ふるさと」に唄われているように、ふるさとの山としての性質をも持ち、ゆったりとした温かみを与えてくれる山です。


主峰が薬師岳と呼ばれているように、これに纏わるいくつかの伝説や山名起源説があります。薬師岳の伝説は、和銅5年(713年)泰澄法師(たいちょう)によって白山登拝を決意し、開山されました。泰澄は、人形、仏像彫刻では日本最初の達人ともいわれています。泰澄は白山を道場としていますが、越前より越後に赴く際、五輪山(米山)の麓の大樹の下にて仮眠した時、神の夢告に五輪山の西南斑尾山に至る間、濁水奔流して人々大いに苦しみ、これを防ぐことも出来ず困難しているが、薬師如来を安置し、崇敬するならば濁水は清流となるであろうと告げられた、夢覚めて、一本の香木から二体の薬師如来を刻み、一体を五輪山に、一体を斑尾山に安置し奉仕すると、濁流は清く澄んだと言い伝えられています。


また、斑尾山には、泰澄法師だけではなく行基もいて、斑尾山の頂上近くの平らな石に座り栴檀の木(せんだんの木・ビャクダンの異称)で二体の薬師如来像を刻み、一体は里人たちが寺を造立してそこに安置し、真言宗堀能寺と名づけたとされています。もう一体は、お告げを受けた五輪山の頂上に祀ったとの説もあります。現在、山頂に祭られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の奥の院にあたり、高さ約60センチ、横約45センチで中には13体の石仏がはいっていて、12薬師とされといます。


天長8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落ちたことがありました。行基が薬師如来像を刻む為に座った石の一部も崩れましたが、12薬師はその石を使い彫ったとも伝えられています。~Jazzy | 斑尾山の山名起源と薬師伝説・・・あるじのガイド


この石仏を、祠より出して、また元のように入れようとしても最後の一体はうまく収まらないと言い、出したまま下山し過日行くと、元のように自然と収まっていると言う伝説があます。また、この薬師にいたずらをすると天気が悪くなると伝えられ、雨が降ると里のお年寄りは、「だれかまた薬師様をいびったな。」といったものだとも言い伝えられています。


神亀二年(725年)7月、行基が白山妙理大権現に参詣した折に泰澄と出会い、霊験や教義を語り合って極楽での再会を誓ったという逸話が、泰澄和尚伝記伝承に残されています。


このブログは、邪馬台国が大阪府枚方市であることを証明するために書き続けています。卑弥呼の後を継いで、邪馬台国の大王(おおきみ)となった台与の後をたどっているうちに行基に出会いました。行基は、天智天皇7年(668年)、河内国大鳥郡(大阪府堺市西区家原寺町)で父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれました。24歳で戒師の葛城山高宮寺徳光禅師のもとで受戒し、飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び名を行基と改めます。教えを受けたとされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名であり、それとともに井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されています。行基も日本各地で治水工事を行っています。最近では、第727話:hidemaru3375.com/post/山崎橋と邪馬台国でも行基の事を書いています。


泰澄については、第115話:菊理媛神~大目は大日(守口市)ですでに書いています。

「五輪山の西南斑尾山に至る間、濁水奔流して人々大いに苦しみ、これを防ぐことも出来ず困難して、、」とあることから、泰澄は行基に相談して共に、この地で治水工事をおこなったと思われます。


最澄も台与のことを菊理媛神として知っていたと思われます。

又は菊理媛命(ククリヒメ、キクリヒメ)は、加賀国の白山を始め全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と思われます。また熊野本宮大社のことを書いた玉籤集では熊野本宮大社(本宮)で菊理媛神が祀られていると記述されています

熊野本宮大社の家都美御子大神*については、五十猛神*や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神ともする説もあります。

*家都美御子大神は台与です。~第543話:熊野の神々は、、、

*五十猛神は台与です。~第736話:イタケルは台与(1) 


行基は台与が、日本各地で治水工事を行い稲作の促進を行っていたことを知っており、台与の業績に勝るとも劣らない活動をしていたのです。


各地の「豊」の付く地名は、台与(豊)と関係しています。台与は各地で治水工事を行ったのです。

・豊里(大阪市東淀川区)~枝神社:“たいし”は太子=台与

・豊島(武蔵国豊島郡芝崎村:東京都千代田区外神田)~神田明神は台与? 


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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2件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7月23日
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tootake
7月22日
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<台与シリーズ>

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