空海(3):大輪田泊(土木工事)
- tootake
- 4 日前
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第790話
空海(弘法大師)の事績で見逃せないのが、摂津国の大輪田泊(おおわだのとまり)の港湾修築です。天長5年(828)、空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海を摂津国の大輪田泊の造船瀬所別当に任じ港湾修築の指導監督にあたらせます。朝廷は讃岐の満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、着手以来15年を経ても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託します。
この大輪田泊を最初に築いたのは、百済系渡来人西文(かわちのふみ)氏を出自とする仏教僧行基です。行基は、全国各地を遊行し民衆のために潅漑用水や港湾開発を行っっています。このブログは、邪馬台国が大阪府枚方市であることを証明するために書き続けています。卑弥呼の後を継いで、邪馬台国の大王(おおきみ)となった台与の後をたどっているうちに行基に出会いました。行基は、なぜかこのブログに予期せず登場します。行基の初出は、第625話:大阪と邪馬台国:美木多(堺市南区)で、この回では、「行基が掘削指導した貯水池としては、昆陽池(昆陽池公園内、兵庫県伊丹市)、久米田池(大阪府岸和田市) などがあり、また狭山池(大阪狭山市) 日本最古のダム式貯水池(溜池)を改修しています。行基も渡来人=秦氏だからこそ台与と同じような知識と技術を持っていたのでしょう。」と書いています。台与と行基の背後にはいつも渡来系の技術者集団がありました。空海もこの行基を範をとっていたようです。
大輪田泊が所在する摂津や西隣の播磨には、古くから秦氏が入植していました。播磨の平野部では水田開発を行い、赤穂などの沿岸では塩田や港湾の開発や海運を行っています。空海の実家の讃岐の佐伯直氏は播磨の佐伯直氏の分家といわれており、空海は、大輪田泊の場合もそうした人脈を活用したと思われます。
なお、「大輪田」の地名は、摂津国・神崎川の河口にも「大和田」の地名があるのをはじめ日本列島各地に同様の地名があり、そうしたなかで単に「大輪田」といえば概ね務古水門のことをさすのは、この地が古くから最重要港湾として認められていたことを示しているとも考えられています。
大阪府門真市に京阪「大和田」駅があります。現在、大和田という地名はこの駅名にしか見ることはできませんが、昭和30年ぐらいまで大和田村と呼ばれていました。大和田の地名の由来は、かつてこの地が入り江であったことによります。大和田の和田は「わた=海」、わだつみ(海神)という説もあります。
もともと門真市を含む河内平野、大阪平野は淀川と大和川二つの川の水が流れ込む河内湖という巨大な湖でした。その周辺には二つの川から運ばれる土砂が堆積し、砂州と沼地が混在する広大な沼沢地が出来ました。草香江と呼ばれる地域は水と肥えた土に恵まれた巨大な穀倉地帯となった半面、湖が出来るほど水量が流入するにもかかわらず、その出口は上町台地北端は現在の新大阪から江坂付近の一か所しかないため、たびたび水害に見舞われていました。大和川も羽曳野から北上して河内湖に合流し、水の出口は一か所しかありませんでした。和田は谷間の入野に比較してやや広い平地を意味しています。
海と川と陸地が渾然とした沼地だったようでそれらが一体化=和している→大きく和するという意味で、すなわち大和(ヤマト)です。
古事記には、次のように書かれています。「仁徳天皇の御世に、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、、、、、」
そして、日本書紀には「崇神天皇 即位62年、灌漑事業を行って依網(よさみ)池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。」と書いてあります。
つまり、仁徳天皇=崇神天皇=台与というわけです。~第203話:堀江~仁徳天皇は崇神天皇!
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<蛇足の追記>
大輪田泊は、延喜14年(914年)の三善清行の『意見封事』に、奈良時代に大僧正行基が築いたとして記される五泊のひとつです。五泊とは東より、河尻泊(兵庫県尼崎市神崎町)
大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)、魚住泊(兵庫県明石市大久保町)、韓泊(兵庫県姫路市的形町、のちの飾磨津)、室生泊(兵庫県たつの市御津町室津)
いずれも摂津から播磨にかけて所在するため、「摂播五泊」とも称されます。
大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名です。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称していました。
務古水門とは、「向こうの港」ということです。<ムコは入り口>
私は、第6話:六甲山(むこうやま)~地名からわかること で六甲山(ムコ山)と向町(ムコウ:向日市)は枚方から見えるため、「むこう」は枚方の人間が付けた地名で枚方市が邪馬台国であった証だとしていました。しかしタミル語で「ムコ」は入り口の意味だというのです。ということは、邪馬台国の西の入り口は武庫川(ムコ川:兵庫県)で東の入り口が向日市(京都府)ということになります。これはまさに摂津の国です。~参照:第5話:摂津の誕生
※空海が土木工事を各地で行うことが出来たのは、行基の手法を引き継いだためです。
行基は、秦氏(スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)・台与)に土木工事の手法を学んだと思われます。
<空海シリーズ>
第789話:空海(2):阿刀氏
第788話:空海と秦氏
{参考文献}
田中 孝顕著「日本語の真実」
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>

<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)
https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇
https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??
https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山
hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 敏達天皇は台与(豊)
衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!
孝昭天皇は台与:日原は目原 飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ 大宜都比売(おおげつひめ)は台与
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 神八耳命は台与(豊)
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与
山部赤人は台与! 八幡神は台与!!
とよ(乎止与命・台与・臺與) 台与の物語